「キリスト教的言葉遣い」を使いすぎていませんか?

2018年3月16日金曜日

雑記

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 キリスト教の「専門用語」と言うより、クリスチャンの日常的な「言葉遣い」ですが、若干奇妙なものがあります。

 たとえばお礼を言うときは「ありがとう」でなく「感謝します」と言います。
 べつに「感謝します」自体は珍しくない言葉ですが、やたら「感謝します」「感謝します」と感謝されるので、だんだん奇妙に思えてきます。
 ちなみにこれは、お礼じゃない時でも言います。たとえばこんな感じ。
洗礼式の今日が晴天になったことを、感謝します
 晴れたのはただの偶然だと思うんですが、とにかく感謝するわけです。

 これは、「感謝できそうなことを積極的に探す」という姿勢でもあると思いますね。その意味で「牧場の少女ポリアンナ」の「良かった探し」みたいなものかと。
 あ、違いますか。失礼しました(笑)。

 他にもあります。
 たとえば「恵みが増し加わります」とか。
 これは翻訳すると、「神様からの祝福がどんどん増えていきます」みたいな感じでしょうか。よくわかりませんが、独特な言い回しです。
恵みが増し加わります
 なんか、異世界を覗いてしまったような気になりませんか?

 クリスチャンの日常用語的かつ専門用語的なものに、「アーメン」とか「ハレルヤ」とか「ホサナ」とかがあります。意味はそれぞれ「その通りです」「神をほめたたえよ」「どうか救って下さい」みたいになります。
 これは教会では、けっこう使われますね。聖書にも頻出する言葉です。

 私個人は、こういう用語は使いません。使わないことにしています。
 だから当ブログにコメントをいただいて、「あーその通りだなあ」と思った時、私はよく「おっしゃる通りですね」と返信します。クリスチャン的には「アーメン」「アーメンですね」となるところですが、ちょっと気持ち悪いので使いません。

 なんで気持ち悪いかと言うと、「排他的」に感じるからです。サークルのメンバーが内輪だけで盛り上がってるような気がして、聞くとモヤモヤするからです。
 もちろん、使いたい人は自由に使ったらいいんですけどね。

 ちょっと話はかわりますが、

 小学生時代に「ファミコン」が燦然と登場しまして、私たちの遊び方は激変しました。それまで外でメンコとかベーゴマとかしてたのが、部屋にこもってピコピコするようになったのです。それが健全か不健全かわかりませんが、ほとんど避けられない、時代の流れだったと思います。

 で、「ゼビウス」というシューティングゲームが登場しました。ある日友達の家に行くと、皆「ゼビウス」で盛り上がっています。私はその新種のゲームに魅了されました。
「操作方法は?」
 私の質問に、異口同音にこんな返事が返ってきます。
エーシタビーウエ
「なに?」
「だから、エーシタビーウエ」
「は?」
「エーシタビーウエ!」
 それきり誰も何も教えてくれません。どうやら私が鈍すぎたようです。
 後からわかったのですが、Aボタンで地上攻撃(つまり下)、Bボタンで対空攻撃(つまり上)だったのです。だからエーシタ(A下)、ビーウエ(B上)だと。

 そんなのわからんだろ! と当時の私は思いました。説明が雑すぎるだろうと(笑)。

 何か、私の知らない(そして皆は知っている)秘密の「暗号」を言われた気がして、疎外感を覚えましたね。内輪で盛り上がっていて、自分だけそこに入れない、みたいな。本当は全然そんなことなくて、皆ただ面倒くさくて説明を省略しただけだったんですけれど。

 でも今クリスチャン界隈で「感謝します」とか「恵みがー」とか「アーメン」とか「ハレルヤ」とか「ホサナ」とか聞くと、その時の疎外感を思い出します(もちろん、かつては私もよくそれらを使っていたのですが)。
 クリスチャンには当たり前な用語でも、そうでない人には全然わからない言葉です。だから使い方には注意すべきだと、私は思いますね。

 一方で、そういう専門用語が活きてくる場面もあります。

 初めてカトリックのミサに出席した時のことですが、「聖体拝領」とか「秘蹟」とかいう言葉を目にして、「うわーそれっぽいなー」と妙に感動したことがあります。わからない専門用語だからこそ、そしてカトリックのアーティスティックな雰囲気だからこそ、そう感じたのかもしれません。とても新鮮で、(あえて横文字で言うと)ホーリーな感じでした。
 ま、それも慣れると普通なんですけどね。

 専門用語(あるいは専門用語的な言葉遣い)が、疎外感を与える場合と、逆に畏敬の念を与える場合があります。どちらが良いかと言えば、後者でしょう。前者はできるだけ避けた方がいいです。

 キリスト教という宗教をやっている人ならば、そういうことも時々考えてみたらいいのかな、と私は思います。

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