ハーメルンの笛吹き? 「子供を教会に取られる」現象

2017年8月21日月曜日

教育 教会の「健康」

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 夏の怪談みたいですが、「子供を教会に取られる」現象について、今回は実際に見たことを紹介したいと思います。
 ただこれは(たぶん)極端な例なので、これをもって「教会」を語るべきでもないと思います。多くの教会はこんな状態でなく、真っ当に頑張っていることでしょう。だから反面教師的に読んでいただければと思います。

・「若者育成」のワナ

 ある教会が、いわゆる「若者育成」に力を入れていました。
 とにかく若者向けの活動が満載でした。日曜は礼拝以外にも終日いろいろなアクティビティがあり、土曜も平日も、若いクリスチャンを集める集会やミーティングが用意されています。遊具類も充実していました。そのぶん大人の信徒たちは放置されていましたが。

 その若者育成の中心を担うのはA牧師で、言い方は悪いかもしれませんが、十代後半の子供たちにベッタリでした。良く言えば「次世代育成に重荷がある」ということになりますが。
 A牧師はいつも若者たちをまわりに置いて、笑い話に花を咲かせていました。個人的な相談にもよくのっていました。一人一人のことを気にかけて、よく声をかけていました。だから親身になってくれる先生、良くしてくれる先生、楽しい先生、という印象が皆にあったと思います。当然ながら、若者たちからは大人気でした。

 そんなA牧師に心酔する子たちもいました。牧師の言うことなら間違いない、ということで彼ら(彼女ら)は何でもかんでも言われるままに従っていました。もちろん彼らは、それで神様に従っているつもりだったのですが。
 そのうちA牧師は、「従順な」若者たちを礼拝奉仕で重用するようになりました。楽器や歌を練習させて毎週ステージに立たせ、ダンスを披露させ、証(あかし)をさせ、代表で祈らせました。
 いつの間にか、礼拝奉仕の大半を、彼ら若者たちが担うようになっていました。

・幅をきかせる子供たち

 すると、若者たちに徐々に変化がみられました。「自分は重要な立場にいる」という意識があったのでしょう、態度が尊大になっていきました(もちろん全員ではありません)。たとえば奉仕に行った先の教会が「異言を語らない教会」だと、「あーこの教会の人たち、異言わからないんだー(苦笑)」と平気で言います。礼拝奉仕をしていない大人の信徒を見下して、言うことを聞きません。まあこれは若者らしいと言えばそうかもしれませんが。

 しかしもっと深刻な問題は、それぞれの若者が、「A牧師の言うことなら聞くけれど、親の言うことは聞かない」みたいな状況になったことです。その親というのもクリスチャンで、同じA牧師の牧会を受けているので、簡単に言うと親も子も同じ信徒なわけです。しかし子供の方が牧師のそばにいるし、礼拝奉仕なんかでも目立っているので、どちらかと言うと「親より上」みたいな意識になったのでしょう。「自分は親より霊的だし、いろいろわかっている。親は何もわかっていない。だから自分に指示する資格はない」みたいに考えるようになったのだと思います。親からしたら困った事態でした。

 もっとも年頃の若者が親に反抗するのは、自然なことです。むしろ反抗心が見えてこない方が問題かもしれません。 でもその反抗は親だけでなく、大人全般とか、社会全般とか、権威全般に対して起こるものです。その中で親が一番反抗しやすい相手だというだけです。

  でもその教会の若者たちは、A牧師には決して反抗しません。「牧師に対する絶対の従順」 が、「神に対する絶対の従順」と同列になっているからです。だから親には大々的に反抗しても、A牧師に対しては素直で従順な「子供」であり続けるわけです。

 たとえばですが、奉仕の準備などで若者たちが遅くまで教会に残ることがありました。親からすれば、10時になっても11時になっても子供が帰ってこない、という状況です。もっと早く帰ってきなさい、と子供に注意します。するとこう反論されます。
「神様のための奉仕なんだから仕方がないだろ」
「これをやらないとA牧師が困るんだから」
「自分には責任があるんだから」
 子供が一生懸命やっていることだし、牧師が絡んでいることでもあるので、親は何も言えなくなります。
 こういう状況を指して、ある親がこんなふうに言いました。とても印象に残る言葉でした。
「子供を人質に取られているみたいです」

・教会から離れない子供たち

 やがて若者たちが卒業する頃になると、「進路」が問題となりました。
 A牧師は大勢の若者が卒業するタイミングに合わせて、新規事業を立ち上げることにしました。若者たちをそこで働かせるためです。彼らがどこかに進学して(たとえそれが神学校や宣教訓練校であっても)教会を一時的にでも離れると、それきり帰ってこない可能性があります。そのリスクを冒すよりは、「楽しそうな就職先」を用意してあげて、ずっと若者たちを囲っておこうと考えたのでしょう。中心的な子たちがそれに同調すると、大勢が続きました。

 それを見る親たちは複雑でした。我が子が高卒で、先行きのわからない「事業所」に就職すると言い出したからです。必ずしも学歴が重要ではないでしょうし、教会がバックアップするとはいっても、不安は拭えなかったと思います。教会に入り浸りだった子供が他の世界のことなど知らずに下した決断だったのも、気がかりだったでしょう。
 かと言って、上記のような状態にあるので、子は親の助言や忠告など聞きません。しかも牧師はこんな大きなことを言います。
「この事業を通して、世界に出て行くんだ」
「世界中のクリスチャンとネットワークをつくるんだ」
「壮大な神の事業を成し遂げていくんだ」
 子供たちが夢を見るには、十分な謳い文句でした。

 というわけで、言葉は悪いかもしれませんが、「子供を教会に取られる」みたいな話になるのでした。
 子供たちはどこか遠くに行くわけではなく、だいたいいつも教会にいるので、「取られた」というのは言い過ぎかもしれません。でもその心においては、親からすれば、ものすごく遠くに失われてしまったように感じるのもまた、事実なのでした。

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