教会と個人のキョリ感・その2

2017年3月21日火曜日

教会生活あれこれ

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 教会と個人のキョリ感について、2回目です。
「よその教会のことはわからない」という人は、自分の教会とのキョリが近すぎるのではないでしょうか、というのが前回の趣旨です。教会が近すぎて、他が見えなくなっているような状態(あるいは見る必要性を感じない状態)なのだと思います。だからクリスチャンはそれなりの「勉強」をして、視野を広く持つべきだ、ということです。
 ただ「勉強」と言っても、教会内で開かれるバイブルスタディとか、個人的な聖書研究とかのことではありませんよ、という話でした(詳しくは前回の記事を参照して下さい)。

 あるいは「勉強する暇なんてないよ」と言う方もおられると思います。仕事や学業や家事や育児や介護など、たしかに私たちの毎日は忙しいです(ただあまりに忙しいなら、教会に行くこと自体を検討した方がいいような気がしますが。個人的には)。だから無理に勉強しろとは私は言いません。ただそれでも理解しておいていただきたいのは、キリスト教はただ一つの教会(教派)だけが絶対的に正しいということはない、ということです。逆に、それだけわかっていただければ、とりあえず文句はありません。

・どの教派が正しいのか? というナンセンス

 実はこれは、冷静に考えればわかることだと思います。
 聖書は、実に多角的に読める書物です。様々なことが書かれていますが、中には互いに相反する記述もあります。またある箇所の意味するところは、必ずしも一つに断定することができません。解釈の幅があるからです。もちろんシンプルかつ明確に書かれていて、読み間違えようのない箇所もあります。しかしそうでない箇所が多いです。たとえばパウロの書簡などは、現代に至るまで、様々な研究や議論がなされてきていますが、未だに着地したとは言えません。
 そして、そういう解釈の幅があるからこそ、様々な教派に分かれている、と言うこともできると思います(もちろん必ずしも解釈の違いだけで分派してきたわけではありません)。

 もし仮に、聖書の全編が、これ以上ないくらいシンプルに、明確に書かれていて、誰も読み間違えようのない内容だったとしたら、きっと一つのシンプルな解釈だけになるでしょう。すると現在のような多彩な教派に分かれる必要もなかったことになります。一つの教義、一つの教派、一つの教団、で済んだはずです。

 でも実際にはそうはなっていません。なぜか。それは各教派によって解釈が異なり、強調点が異なるからです。そしてそれが許されているからです。聖書自体にそのような幅があるからです。もちろん本筋においては一本なのですが。
 だから、「どの教派が正しいのか?」という疑問は、それ自体がナンセンスだと私は思うわけです。

・「正しさ」を主張する論理

 そういう状況であるにもかかわらず、「自分たちこそ正しい」と豪語して憚らないグループもあります。
 ここで「グループ」と書いたは、ある教派の全体(その末端に至るまで)が、必ずしも「自分たちこそ正しい」と言っているわけではないからです。ぶっちゃけると福音派や聖霊派なのですが、その系統のクリスチャンの全員が、自分たちの正当性を盲信しているわけではありません。中には冷静な人もいます(あまり多くはない印象がありますが)。

 だから「自分たちこそ正しい」を豪語するのは、教会単位の話になるかと思います。
 そしてそういう教会は大概、信徒が教会にベッタリ密着しています。熱心に奉仕し、毎日のように教会に通い、もう個人の生活の全てが教会と共にある感じです。教会とのキョリはゼロに等しいかもしれません。

 そういう教会は、信徒が他教派について学ぶことを推奨しません。いや、ほとんど禁止していると言っても過言ではありません。なぜかと言うと、「自分たちだけが正しい」からです。自分たちが唯一正しいのだから、他の間違っている教派について学ぶ必要はない、いやむしろ知らない方がいい、というような理屈です。

 そこではしばしば、「真理の回復」という言葉が使われます。

 どういうことかと言うと、これはペンテコステ派の一部で熱く語られていることですが、西暦313年、ミラノ勅令でキリスト教がローマ帝国の国教となって以来(つまり国を挙げての迫害が止んで以来)、教会は世俗化した。そして本来持っていた「真理」を失ってしまった。その後十数世紀に渡って、教会は暗黒時代を通った。しかし1517年にルターが宗教改革を起こして以来、「真理」は歴史の中で少しずつ回復していった。と、いうようなお話です。
 で、そこに各教派が絡んでくるわけです。まずカトリックは、宗教改革を起こされるくらい堕落してしまったのだから、ダメ。ルーテル派はルターの改革の流れを汲んでいるけれど、そこで止まってしまったから、ダメ。バプテストは洗礼を強調するけれど、そこで止まってしまったから、ダメ。ホーリネスは清めを強調するけれど、そこで止まってしまったから、ダメ。つまりどれも「中途半端」で、「真理が回復していない」と言うのです(ちなみにその他の教派、長老派とか改革派とか会衆派とか、東方正教会とかには、まったく言及されないものもあります。もしかしたら存在自体を知らないのかもしれません)。
 で、そんな中で燦然と現れたのが、我々(ペンテコステ派の一部)なのです! 我々は「異言」の回復に預かり、「奇跡といやし」の回復に預かり、「預言」の回復に預かり、「炎のバプテスマ(なにそれ)」に預かり、「五役者(5人の俳優という意味ではありません)」の回復に預かり、これからも様々な真理の回復に預かって行く、選ばれた種族なのです!
 と、いうような話になるわけです。

 要は、自分たちは「選ばれて」いて、「真理の回復」を与えられている。でも他の教派にはそれは開かれていない。理解することもできない。というような主張。

 カルト化の一本手前、みたいな状況ですね。

・「聖書だけ」とは言うけれど

 そのような教会では、前述の通り、信徒が他教派について知るのを良しとしません。だから「教会史」など教えません。教えたとしても、それは「自教派の歴史」になります。
 それよりも、プロテスタントの出発点でもある「聖書だけ」を強調します。「聖書から学べばそれで十分だ。キリスト教関連の書籍だからと何でも読むべきではない。必要なことは聖霊様が教えて下さる」というような理屈です。だから信徒はそちらの「勉強」に熱中することになります。

 そういうわけで、何年たっても、教会史なんて知らない、他教派のことなんて知らない、という状況になってしまうのです。でも、彼らには危機感みたいなものはありません。なぜなら、繰り返しになりますが、「間違っている教派のことなんて知る必要ない」からです。

 だから、前回書いたような、「他教派のことを正しく理解していないのに間違っているとハナから決めつける」という状態になるのですね。

 でもそういう教会の言う「聖書だけ」は、実は聖書だけではありません。というかそもそも、純粋な意味での「聖書だけ」は、ほとんど不可能ではないかと私は考えます。なぜなら聖書を読むとき、そこには必ず「どう解釈するか」という問題が付きまとうからです。そして前述の通り、解釈には「幅」があり、何かを「選択」することになるからです。

 だから「聖書だけ」を強調する教会自体、「自前の聖書解釈」をもって聖書を読んでいるわけです。そこには同系統の牧師や教師、神学者など先人の皆さんの研究、解釈、主張などが含まれています。そしてそれらは、数ある解釈の中の一つなわけです。間違っているとは言えません。けれど、それが唯一絶対に正しいとも言えないのではないでしょうか。

 つまり、「聖書だけ」というのは、「自教派の読み方に従って聖書だけを読む」ということになります。

・教会と個人のキョリ感

 それは、信徒と教会のキョリを限りなく縮めていきます。そして他教派とのキョリを限りなく遠ざけていきます。

 一つの教会にずっと通い続ける、仕え続ける、というのは良いことだと思います。何も否定されることではありません。ただ、それが高じて、「この教会だけが正しい」「他は間違っている」と考えるとしたら、それは少なからず問題だろうと私は思うのです。エキュメニカルの観点からみても、そうでしょう。自分たちの正当性だけ主張していたら、当然ながら孤立していくことになりますから。

 一つの教会で教会生活を送ることと、キリスト教について学ぶこととは、本質的に違うと私は思います。毎週礼拝に出席して説教を聞いても、広義のキリスト教について学んだとは言えません。どちらかと言うと、教会生活はキリスト教の「実践」だと思います。「学習」はまた別に捉えるべきだと思いますね。
 その意味で、教会とのキョリ感が近すぎるというのは、「実践」だけで「学習」がない状態、とも言えます。もちろん当人は「勉強しているつもり」なのですが、そのへんの事情は、前述の通りです。

 キリスト教において「実践」が大切なのは言うまでもありません。しかし「実践だけ」だといろいろ弊害が出てきます。つまり自分の教会とのキョリが近すぎると、いろいろ害が生じてくるわけです。

 キリスト教の勉強と必ずしもイコールではありませんが、キリスト教関連の書籍を読むのはいいことだと思います。やはり知識が広がるし、視界が開ける感じがします。読む前と後では全然ちがう、ということも少なくありません。
 もちろん本と言ってもイロイロあるのですが、とりあえず興味関心のあるものから手に取っていいんじゃないかなと思います。これが良いとかあれがダメだとか、そういうのは自分で読んで経験してみるのが一番です。あんまり一つの教派に偏った本ばかり読むのもアレですですけれど。

 ただ、そもそもの入り口として、イロイロな本を気軽に読めるというのは、自分の教会と適切なキョリが取れていないと、なかなかできないと思います。教会とのキョリが近すぎると、他教派というか、キリスト教界全体に関心を持ちづらくなるからです。だから(一概には言えませんが)どれだけキリスト教書籍に関心を持てるかというのは、自分と教会とのキョリを測る一つのパロメータになるのではないかな、と私は思います。
 あ、単に読書嫌いだというお方はその限りではありませんが。

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