映画が意図的に語らなかったのか、あるいは語る必要がなかった真実。映画『沈黙―サイレンス―』より。

2017年2月1日水曜日

映画評

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 映画『沈黙―サイレンス―』が公開されて2週間くらい経った。
 すでにレビューを投稿しているクリスチャンの方もけっこういて、あらためてクリスチャン界隈の本作に対する関心の高さがうかがわれる。いろいろな人がいろいろな視点で感想を書いていて興味深い。私も当ブログでネタバレレビューを書いているので、興味のある方は下記からどうぞ。

「貫き通すべき『信仰』とは何か。映画『沈黙―サイレンス―』より。」

 ところで数々のレビューの中で、気になるものが1つあった。下記がそれである。

「沈黙―サイレンス― 映画が語らない真実」(敷島のうさぎ)

「天国人」で有名な石井稀尚氏による文章である。私ははじめ、何度読み直してもこの記事の趣旨をうまく掴むことができなかった。結論として何を言いたいのか、よくわからなかったのだ。私の読解力が足りないのだろうか。
 と考えていたら、SNSでケン・フォーセットさんが教えてくれた。下記がそのツィート(2つ)。







 なるほど。なんかクリアになった。ケンさんありがとう(気安く呼ぶなって)。
 つまり石井稀尚氏が当該記事で言いたかったことは、まとめると次の2点に集約されると思う。

①西欧による日本宣教には、日本の植民化という思惑があった。だから禁教にされたのだけれど、映画はそのへんをごまかしている。
②「迫害されるキリシタンを見殺しにした神」が描かれているから、人々(特に未信者)をキリスト教から遠ざけてしまう映画だ。

 うーん。なんか違和感。
 何が違和感なのか書いてみる。

・第一の違和感

 べつに①を否定する気はない。
 けれど映画にはそれぞれテーマがあり、そのテーマに沿ってストーリーが構築されていくものだ。『沈黙』で言えば、「クリスチャンが苦しんでいるのになぜ神は沈黙を保つのか」というのがテーマになっている。つまり人間と神との関係、人間の問いに対する神の答え、という点が掘り下げられている。
 であるなら、「日本宣教には西欧による植民地化の思惑が隠されていた」としても、それ自体は蛇足になると思う。それが事実かどうかという話でなくて、映画のテーマに混乱をきたす、という話。『沈黙』がおかしな陰謀モノの映画になってしまう。だったら私は観なかっただろうし、レビューも書かなかっただろう。

『沈黙』が人々を惹きつける最重要のポイントは、「神の沈黙の意味」にあると思う。植民地化ウンヌンの話ではない。だからそれは氏が言うような「映画が語らない事実」なのではなく、「映画だから語る必要がなかった事実」なのだと思う。

・第二の違和感

 次に②について。
 この映画を観て、「キリシタンたちが苦しんでいるのに神は沈黙していたー」「神様ってヒドイー」「キリスト教なんて要らないー」という反応になる人が、どれくらいいるのだろう。私はならなかった。レビューを書いているクリスチャンの方々の中にも見受けられなかった。

 では、未信者の方々はそういう反応をするのだろうか。
 でもそもそもの話、この映画を未信者の人が観たら、きっと多くの場面で意味がわからないと思う。キリスト教のルールがわからないのだから、そもそも語る材料が少ないのである。「神が沈黙しているなんてヒドイ」という発想に、簡単にはならないと思う。

 それに、神は沈黙していた訳ではない。いや沈黙していたけれど、その沈黙の意味や理由を見出そうとするのが、この作品の取り組みなのである。だから、一見すると「神は沈黙している」と思われる場面もある。けれどフェレイラやロドリゴが最終的に到達したのは、「時には沈黙し、棄教し、辱めを受けることでしか己の信仰を保てないことがある」という痛ましい(そして逆説的な)事実であった。そのへんは、ある程度経験のあるクリスチャンでないと、十分に飲み込めないかもしれない。

 また「神の沈黙」という点で補足するなら、「神は苦しむキリシタンらを見て見ぬフリした」「神は知らん顔を決め込んだ」のでなく、「神も共に苦しんでいた」という発見こそが、この作品の肝なのである。
 そういう(作品としての)結論をちゃんと読み取るならば、 「神様ヒドイー」とか「キリスト教なんて要らないー」という考えには至らないと思う。至るとしたら、それは作品のメッセージを正しく受け取れなかったということであろう。いずれにせよ、この映画がキリスト教を貶めていることにはならない。
 というのが第二の違和感。

・その他

 石井稀尚氏の記事の最後の方に、こんな記述がある。

(以下引用)

(この作品は)神はバテレンには語ったが、日本人には「沈黙」した、という驚くべき残酷な矛盾と疑問を生じさせ、これこそが聖書的な歴史観であるかのような錯覚を与えるという点で、非常に問題である。

(引用終わり)

 つまり、「神はロドリゴ(西欧人)には語られたが、苦しめられたキリシタンたち(日本人)には語られなかった」→「西欧の方が優れている・強い・正しいという錯覚を与える」→「そこが非常に問題だ」ということ。
 でもちょっと待って。物語としての主人公はロドリゴなのだから、彼の視点で語られ、彼の見聞きしたものがクローズアップされるのは当然であろう。多くのキリシタンたちにも、彼らを迫害した役人たちにも、またロドリゴのような宣教師たちにも、それぞれにストーリーがあるけれど、(創作物として)主人公に重点が置かれるのは、まったくおかしなことではない。

 もし主人公が日本人だったら、ロドリゴと同じように、なんらかの形で「神に語られた」という描写がされただろう。あるいは冒頭に出てくるマカオの人間が主人公だとしたら、神はその中国人に「語られた」だろう。そこにやたらと西欧主義を持ち込んでくる必要はないと思う。

 また記事全体から感じる「日本バンザイ」的なニュアンスは何なのだろうね。そこはよくわからないけれど。

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