映画『ルーム』にみる、被害者を襲う二次被害

2016年10月11日火曜日

カルト問題 雑記

t f B! P L
■映画『ルーム』の紹介

 まず映画『ルーム』を、ネタバレしつつ紹介したい。

 主人公の女性ジョイは、高校の時に見知らぬ男に拉致・監禁され、はや7年余りが過ぎている。監禁2年目に犯人の子供をみごもり、男児を出産。ジャックと名付けた。母子は狭い納屋の中、一見普通っぽい暮らしをしている。犯人は定期的に生活物資を届けにくる。
 そして今年、ジャックは5歳の誕生日を迎えた。物心ついたジャックをみて、ジョイは脱出の唯一のチャンスに、賭けることにした。


 予告編

 というあらすじ。ここから若干ネタバレだけれど、この映画は単なる「脱出モノ」ではない。もちろん手に汗握る脱出劇はあるけれど、それは映画中盤で早々に終わる(無事脱出できる)。後半は彼らの脱出後の姿を描いていて、実はそっちの方が興味深い。作り手のメッセージもそこにあるのではないかと私は思った。

  ジョイとジャックは無事に家族の元に戻る。事件は大々的に報道され、周囲は彼らの帰還を喜ぶ。しかしジョイもジャックも「外の世界」になかなか馴染めない。ジョイはまだいいけれど、ジャックにとっては全てが初めてであり、ジョイ以外の人間とまともに話すこともできない。いろいろ非常識なことをしてしまう。そんな我が子にジョイは苛立つ。というかイロイロなことに苛立つ(PTSDの症状だと思う)。母子関係はギクシャクしていく。
 そんな中、ジョイはテレビのインタビューを受けることになる。インタビュアーにこう問われ、彼女は絶句する。
「ジャックが生まれた時、彼だけでも外に出すべきだったのでは? きっと犯人もそれには応じたでしょう。そうすれば彼は普通に生きられたのでは?」

 ジョイは苦悩する。自分はジャックを必死に守って、愛して、育ててきたつもりだったけれど、間違っていたのか? と。そして、服毒自殺を図ってしまう。

■どこの世界でも、被害者は二次被害に遭う

 いわゆるセカンド・レイプについて何度か書いてきたけれど、こうやって被害者が「あとから」いろいろ責められるのは、それと同種だと思う。被害に遭ったはずなのに、その「遭い方」と「対処の仕方」について責められる。なんでこうしなかったんだ、もっとこうできただろう、ここに落ち度があったんだ、みたいな感じで。
 それは悲しいし腹立たしいことなんだけど、実際にはあちこちで同じようなことが起こっている。先日も電通の新人社員の自殺が過労死と認定されたけれど、それに対して「残業100時間くらいで自殺とは情けない」なんて耳を疑うような暴言もあった。そこには時間数だけで測れない事情があったはずだし、まして人が死んでいる事態なのに、そういう想像や配慮が働かない。そっちの方がよっぽど「情けない」と私は思う。

 また困ったことに、同じような二次被害が、カルト化教会の被害者にも起こっている。
 カルト的体質の教会内で、牧師の明らかな犯罪行為が行われる。やっとカルトだと気付いた信徒たちが、それを糾弾する。紆余曲折あってのち、牧師が何らかの制裁を受ける。もちろん受けない場合もあるし、信徒側が追放されて終わる場合もあるし、そこは何とも言えないけれど、とにかく制裁を受けるとする。牧師は教会を去ったり、訴訟を起こされたり、資格剥奪みたいな処分を受けたりする(そこもどうなるか何とも言えない)。

 それを傍から見ていた他教会の牧師や、あとから話だけ聞いた牧師なんかが、(一部だと思うけど)なにを血迷ったのか、こんなことを言いだす。
「牧師も間違いを犯すものなのに、なぜ赦さなかったんだ。赦すのが神の御心ではないか」
「これでは姦淫の現場で捕えられた女に石を投げるようなものだ。あなたがたの信仰はどこに行ったのだ」
「油注がれた者(ここでは牧師のこと)に手を出すなと聖書に書いてあるのに、なんてことをしてしまったのだ」
「牧師のために祈るのが信徒の役目だろう。なぜ最後まで祈って支えないんだ」

  私はこういうのを聞くと「はぁ?」としか思わない(思えない)。まったく事情がわからない立場でよくそんなこと言えるなと、その浅はかさに呆れてしまう。赦す赦さないの話なんかじゃないのに。被害を被害として訴えなければならない信徒たちの気持ちが全然わかっていない。牧師と信徒の単なるイザコザ、くらいにしか思っていないのだろう。

 でもこういうのはけっこうよくある話だ。それだけカルト化教会について認識がないのかもしれない。あるいは同じ牧師として、問題を起こしたっぽい牧師であっても擁護したいのかもしれない。だから信徒たちを責め、牧師の権威性や不可侵性ばかりを強調するのかもしれない。彼らは牧師を糾弾する信徒たちをみて、「牧師の苦労など何もわかっていない羊のくせに」などと平気で言う。

 でも「牧師の苦労」などと信徒の前で言ってしまったら、それこそ牧師としてオシマイだと私は思う。苦労する覚悟もなく牧師になったんですか? と逆に問いたくなる。

■何が「回復」で、何が二次被害を防ぐのか

『ルーム』の話に戻ると、ジョイの自殺未遂は失敗に終わる。そして長い入院生活のあと、ジャックと家族のもとに帰ってくる。そして長い長い、いつ終わるともしれない回復の過程を母子は歩むことになる。もっとも何が「回復」なのかもよくわからないのだけれど。自分の身にかつて何が起こり、現在何が起こっていて、これから先どうなるのか、実はよくわからないのだけれど。とにかくこの母子は、理解し支えてくれる人たちとともに、生きていくしかない。

 いろいろな犯罪の被害者たち(カルト化教会のそれも含む)は、皆そうなのかもしれない。結局のところ「答え」はなくて、いろいろなことがちゃんと把握できないまま、何かを目指して日々を生きていくしかないのかもしれない。それはすごく理不尽なことだけれど、かといってどうすることもできない。加害者が罰せられ、社会的制裁を受ければ、少しは気が晴れるかもしれない。しかし被害の記憶が消える訳ではない。なんともやるせない。

 被害者の気持ちは、たぶん被害者にしかわからない。だから不用意なことは言ってはいけないと思う。100%善意で言ったことが、もしかしたら100%セカンド・レイプになるかもしれない。だからなにか言いたかったら、想像力を総動員して、被害者の立場に立つ努力をすべきだと私は思う。それが唯一、二次被害から被害者を守りうる方法ではないだろうか。そしてそのように理解し受け入れようとしてくれる人々の中にこそ、被害者の「回復」の過程が、あるのかもしれない。

 映画『ルーム』を観て、そんなことを考えさせられた。

QooQ