LGBTは選択でなく、何かの結果でもない

2016年9月11日日曜日

雑記

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■ある呟き

 こんな呟きを見つけて、数日考えていた。
 よく読んでみてほしい。



 まず個人的には、同性愛でなくLGBTと表現すべきだと思う。性の多様性を表すのに、もはや「同性愛」では不十分だと思うからだ。現在、いろいろな性の在り方が認められつつある。いわゆる「同性愛」はその中の1つであって、全部ではない。
 その意味ではLGBTという表現でも不十分になるかもしれないけれど、性の多様性を広く意味する言葉として、ここでは使いたい。

 次に上記の呟きだけれど、まとめるとこうなると思う。
「同性愛はありのまま受け入れるべきでなく、悔い改めるように語らなければならない」
「同性愛者も人として愛すべきだけれど、悔い改めを求めなければならない」

 つまり、「同性愛=罪」というわけだ。
 皆さんはどう思われるだろうか。

■他人事でない痛み

 ここで少し私個人の話をするけれど、実はある障害がある。障害者手帳をもらうほどではないけれど、ボーダーラインに位置している。今後悪化することも改善することも多分ない、固定化したもの。知的機能や身体機能の障害でなく、日常生活にほとんど支障はない。けれど若い頃はかなり悩んだ。ほとんど健常なのだけれど、障害は障害として存在していて、どうにも誤魔化せなかったからだ。

 子供の頃はこの障害のせいで少なからずバカにされ、からかわれた。それがどれだけ苦痛だったかは、同じような体験をしなければわからないだろう。でもここで自分の可哀そう自慢をする気はない。私が言いたいのは、障害ゆえに持てた視点がある、ということだ。苦しまなければ持てなかった視点、と言うこともできると思う。
 そしてその意味で、LGBTの方々の苦悩(その大きさは私の比ではないだろうが)を私は他人事とは思えない(LGBTは障害ではないので誤解しないように)。またLGBTだけでなく、様々な理由で虐げられている人々の苦痛が、私にとって他人事ではない。

 だから「同性愛=罪」とハッキリ断罪してしまう人の心理が、私にはまったく理解できない。

■無理なものは無理

 たとえばだけど、あなたには嫌いな食べ物があるだろうか。あるとして、それがピーマンでもアボガドでもパクチーでも何でもいいけれど、嫌いな理由はなんだろうか。味がまずいから、見た目が嫌だからか、匂いが嫌だからか。
 そして次の質問。それを「好きになれ」と言われて、好きになれるだろうか。好きになれないなら、その理由はなんだろうか。おそらく多くの人がこう答えるだろう。
「とにかく嫌いなものは嫌い。好きになんかなれない。理由なんかない」

 つまりそれは、生まれついてのものだ。理由はわからないけれど、生理的に受け付けないのだ。食べ物の好き嫌いは「程度」があり、無理やり食べれば食べれるという場合もあるけれど、中には、食べると意に反して吐いてしまうとか、拒絶反応が身体に出るとかいうケースもある。 つまり、「ダメなものはダメ」「できないものはできない」「無理はものは無理」なのだ。

  これは食べ物だけの話ではない。たとえば高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症、赤面症、緊張すると手に汗をかくなど、何にでもあてはまる。自分でもどうしてそうなるのかわからないのだけれど、とにかく、そうなってしまう、避けることができない、コントロールできない、という状態。

 そういう経験のない人にはわからない話かもしれない。ではこういう想像をしてみたらどうだろう。事故で両目を失った人が、「自分の目でしっかり見ろ」と言われる。でも見れないものは見れない。できないものはできない。無理なものは無理。
 そういう感覚、わかるだろうか。

■LGBTは選択でなく、何かの結果でもない

 ではLGBTの話に戻る。彼らのうち、たとえばレズビアンやゲイは、本当は異性を愛せるのに、わざわざ同性を愛そうとしているのだろうか。異性を愛するのが「自然なありよう」だと仮定して、その「自然なありよう」を、自ら「好き好んで」放棄しているのだろうか。

 もし放棄するのが可能だとしたら、異性愛か同性愛かは「自分で選択できる」という話になる。としたら、異性愛者であるあなたも、同性愛者になれるということだ。あなたが同性愛を嫌悪する人間だとして、そういうあなたも今日から同性愛者になることができる。それが「選択」の話であるのなら。

 あるいはLGBTを罪だと言い張る人たちは、こう主張するかもしれない。
「彼らは過去に心に大きな傷を受けたのです。そして同性を愛するなどの悪い状況に陥ってしまったのです」
  しかしもし「心の傷」でそういう状態になるとしたら、あなた自身も、あなたの両親やあなたの子も、あなたの友人も尊敬する人も、みないつか「心の傷」とやらでLGBTになるかもしれない。異性を愛していたあなたが、何らかの「心の傷」で突然、同性愛者に変身するかもしれない。そういうことが考えられるだろうか。また、そういう実例はあるのだろうか。あるとして、それはどこの誰なのだろうか。連絡をとって確認するから教えてほしい。

 また仮に「心の傷」でLGBTに「なってしまった」のなら、それはその人の落ち度ではない。落ち度がないのに、なんで悔い改めなければならないのだろうか?

■聖書は何と言っているか

 LGBTは生まれついてのものだと私は理解している。人生の途中で変化するのではない。あえて言えば、人生の途中で(自分で)「気付く」ものだ。そしてそれは食べ物の好き嫌いや、いろいろな恐怖症、障害などと同じで、「自分の選択ではない」「自分のコントロールでもない」「変更することもできない」という種類のものなのだ。

 そういう、自分でどうにもできない、自分の落ち度でもない、変更できない種類のものを「罪だ」と断罪される気持ちを、想像できないだろうか。それがどんなに残酷で、人の気持ちを無視したものか、想像できないだろうか。

 熱心な(そして狭量な)クリスチャンであるあなたは、ここで聖書を持ち出すかもしれない。
「ほら、ここにこう書いてある。神はLGBTを罪と断じています。私ではありません」

 私は聖書を何度も通読しているし、どこに何が書いてあるかだいたい把握しているけれど、「LGBT=罪」と断言している箇所なんて知らない。そういう議論になっている箇所なら知っているけれど、それは「議論になっている」というだけで、何かを断言していない。またその「議論」というのも、LGBTに対する偏見や先入観から「結論ありき」で進められていて、公正な議論とは言えない。

 聖書について言及するなら、現代社会におけるいわゆる「LGBT問題」について聖書は何も言っていない、と私は思う。聖書が問題視しているのは神殿男娼とか邪教的男娼習慣についてだ。そして聖書は同じく、異性愛者における娼婦とか売春とかも問題視していて、そこに同性や異性の差はない。

■想像力の欠如

 最後に、「『人をありのまま受け入れる』のが聖書的だと誤解しているクリスチャンが多い」という意見について。

 これは、「ありのまま」の意味を単純化しすぎていると思う。「ありのまま」はいろいろな意味を含んでいるからだ。たとえば日本人が日本人として生活するのは「ありのまま」なことだし、子供が子供らしく過ごすのも「ありのまま」なことだ。その「ありのまま」を、悔い改める必要などない。

 たぶんこの人は、「罪をそのまま受け入れるべきでない」ということを言いたいのだと思うし、私もそれには同意する。けれどLGBTのような繊細な話題で、「ありのまま」という言葉を大雑把に使うのは誤解のもとだ。「ありのまま」で良いこともあるし、「ありのまま」で良くないこともある。ということだ。

 そして繰り返しになるけれど、LGBTであることはその人にとって「自然なありよう」であり、「ありのまま」で良いことなのだ。罪などではない。それが罪であるなら、いろいろな障害とか恐怖症とか、左利きだとか肌が黄色いとか、足が速いとか遅いとか、パクチーが好きだとか嫌いだとか、そういうことも罪になってしまう。それを「悔い改めろ」と言うのなら、まず異性愛であることを「悔い改めろ」と言わなければならない。

 すべては想像力の欠如に原因があるのではないかと、私は思う。自分とはちがう立場、ちがう境遇、ちがう環境にある人々に対する想像力の欠如。あるいは少数派、マイノリティに対する想像力の欠如。

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