祈りが「足りない」のか、他の何かが「足りない」のか・その2

2016年9月9日金曜日

「祈り」に関する問題

t f B! P L
 前回に続いて、「祈りが足りない」という表現について考えてみたい。

 祈りが「足りた」か、「足りない」か。それは主観の問題。
 同じような状況でも、人によって見方が変わる。神様から「これだけ祈れ」とノルマを与えられて、その達成度を表すものでもない。そもそも神様はノルマを課す方ではない。だから足りないのは「祈り」でなく、そのへんのことを「よく考えること」だと思う。
 と、いうのが前回のまとめ。

 今回はもうちょっと掘り下げてみようと思う。


■律法主義を「避けよう」と言いながら、そこに陥っているという風景

 前回も書いたけれど、「たくさん祈れば〇〇に到達できる」という考え方は、たとえば仏僧が修行して「悟り」の境地を求めるのに似ている。仏僧の場合、(よく知らないけど)滝に打たれるとか、長時間座禅を組んで瞑想(?)するとか、ひたすら読経するとか、いろいろ頑張らないといけないと聞く。私が問題にしているクリスチャン群も似たようなもので、長時間祈るとか、聖書をたくさん読んで暗唱するとか、何時間も賛美するとか、30日断食するとか、「霊の戦い」に出向くとか、そういう努力をいろいろしないと、何かを得られない。という話になっている。

 つまり、頑張って何かを得ようという考え方。

 そういうのは教会用語で「律法主義」と言う。聖書では、律法主義者たちがこれでもかってくらい批判のマトとなっている。だから指導者たちは口を揃えて「律法主義を避けなさい」と教える。しかしそのわりに、上記のように自分たちがそこにハマりこんでしまっている。という珍妙な事態になっている。

■「祈り」というより「投資」

 ここは「祈り」の原理原則に立ち戻ってみよう。
「祈り」とは、聖徒が神に「捧げる」ものであろう。そして「捧げる」とは、文字通り「捧げる」ことであろう。そこに「見返りを求める」という思惑はない。「祈る」ことで一定の「見返り」を求めるとしたら、それはギブアンドテイクの関係である。すると、神はいわゆる商売相手になってしまう。

「これだけ祈ったんだから、〇〇してくれるよね?」
「Aさんはこういう祈りをしたらこう答えられたんだって。じゃあ私がそれ以上に祈ったら、もっとすごい答えが返ってくるはずだよね?」
「これだけ祈って仕えて献金してるんだから、報いがあって当然だよね?」

 そういうのを何と言うか、知っているだろうか。「投資」と言う。投資家は誰かにお金を寄付するのでなく、有望そうな企業や個人に「投資」して、それが増えて返ってくることを期待している。「祈りの投資家」たちもそれと同じで、祈ることで神様からの特別なバックを期待している。言い方はしおらしくて、謙遜っぽいんだけど。
「もし導きなら・・・」
「もし御心なら・・・」
「もしできますなら・・・」
 そのくせ、何も起こらない、答えが返ってこない、何も与えられない、という気がすると(それもあくまで主観)、「主よ何故ですか」「なんという試練でしょう」「主は我を見捨てたもう・・・(なぜか文語体)」みたいなことを言いだす。

 そこにはそもそも、祈りを「捧げる」という概念がない。わかやすく言うと、「一方的に捧げるだけで、それでおしまい」という概念がない。祈ったからには何かあるよね? という投資的感覚から離れられない。つまり神様を「取引相手」と見ている。神様は無償の愛で一方的に私たちに救いを用意してくれたけれど、私たちは神に何かするたびに「見返り」を求めている。としたら、それは失礼なことではないだろうか。

■「祈り」にみられる「クリスチャンとしての成長」

 もう少しマイルドな言い方をすると、彼らは「お願い」系の祈りがメインになっている。ああして下さい、こうして下さい、というお願いばかり。もちろん祈りにはそういう側面もある。「主の祈り」も基本「お願い」だ。しかし「主の祈り」で言えば、あれは「私たち(我ら)」が主語になっていて、より広範なキリストの共同体、あるいは地域、あるいは国、あるいは世界の平和を祈念するという意味合いがある。個人的な「あれしてこれして」三昧とはちがう。

 とは言っても人間だれしも、何かを期待して祈るという動機はある。それが悪いのではない。お願いしたいことがあるなら、思う存分お願いしたらいい。けれどそれ「だけ」になってしまうと、自分中心な子供っぽい祈りに終始することになる。時には自分のことを離れて、他者のために祈ったり、神に栄光を帰すだめだけに祈ったりすることも、クリスチャンの成長の1つだと思う。そういう視点がなく、自分のことに終始して何時間も祈ったり賛美したりする態度が、私の言う「祈りの投資家」なのだ。

 ただし、たとえ他者のために祈っても、結果的に自分のためにしかなっていない、という事態もある。たとえば、

「昨日あなたのために集中して祈りました。すると〇〇と語られました。だから××することを勧めますね」

 みたいなことを言う人がいるけれど、結局それは、相手を自分に依存させようというのが動機になっている。つまり人々からの尊敬を集めるために、他者のために祈る、ということ。それは他者のためなんかでなく、自分のためでしかない。大人ぶった子供みたいな行動だ。

「クリスチャンの成長」を霊的なものと捉え、何時間祈れるか、上手に祈れるか、どれだけ小難しい祈りができるか、みたいな視点で評価する傾向が、一部の教会にあると思う。でもそんなのは成長とは言わないと思う。それは「成長」と言うより「上達」だろう。一般的にみても、人を騙すテクニックを身につけた子供を「成長したね」とは言わない。
 クリスチャンの成長とは、よくわからない「霊的」なものの以前に、自分のことを離れて純粋に他者のことを考えられるか、純粋に他者のために祈れるか、という人格的視点で評価すべきだと思う。

 だからその人の「祈り」をみることで、その人の「クリスチャンとしての成長」を、ある程度推し量ることができると思う。ただし繰り返すけれど、それは上手に祈れるとか、長時間祈れるとかいう視点ではない。

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