虐待被害者の擁護について

2016年9月25日日曜日

キリスト教系時事

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 前回は映画『スポットライト』から「教会の闇」について書いた。司牧による性的虐待と、それを隠蔽する教会組織についてだ。

 この問題で解決しなければならないのは、教会の隠蔽体質をどうやって改めるか、司牧をいかに監督するか、という点だと思う。予防策を講じて、再発を防止しなければならない。
 そして同時に考えなければならないのは、既に被害に遭ってしまった人たちをいかに守り、フォローしていくべきか、という点だと思う。これはすごくセンシティブな問題だ。

■虐待被害者に積み重なる理不尽

 虐待被害者の多くは、年端のいかない児童か、あるいは成人女性である。
 彼らは被害に遭った時から今に至るまで、ずっと苦しんでいる。虐待そのものが大変な苦痛だったのはもちろん、その後に続く諸々にも、あるいは生きること自体にも、長い期間苦しめられている。

 統計的にはわからないけれど、判明している被害はごく一部だと考えられる。つまり被害者は多くの場合、被害を訴えていない。理由は相談する相手がいない、被害を思い出したくない、警察や関係機関に通報して根掘り葉掘り聞かれるのが耐えられない、などだと思う。できれば早く忘れてしまいたいのに、いつどこで誰に何をされたのか、その詳細を知らない人たちに話さなければならないなんて、ほとんど考えられないかもしれない。

 その負担はすごく大きいと想像できる。しかもそれだけでなく、もし事が公になれば、たとえ個人名が出なくても、いろんな憶測や噂話やネットの力で、自分自身だと特定されてしまうかもしれない。まして教会内のことであれば、バレるのは時間の問題だろう。

 だから不当な被害に遭い、それを訴えただけなのに、なぜか大きな負担を背負わなければならなくなる。虐待被害者に積み重なる理不尽である。

■セカンド・レイプ

 そのようにセンシティブな話であるにもかかわらず、被害者には心無い言葉が投げかけられることがある。たとえば次のような言葉。

・なぜ本気で抵抗しなかった?
・なぜ逃げたり、大声を出したり、助けを求めたりしなかった?
・なぜそのような場所に(そのような時間に)行った?
・なぜはじめに怪しいと思わなかった?

 など。
 これと同じようなことが、レイプ被害に遭った女性(男性)に投げかけられることもある。まるで被害者に非があるかのように。まるで被害者の自業自得であるかのように。しかしそういうのセカンド・レイプという。

 なんで抵抗しなかったのかと言われても、力の強い男性にねじ伏せられ、抵抗すればするほど暴力をふるわれ、命の危険さえ感じるのだ。痛みと恐怖でパニックになり、抵抗できなくなって当然である。声だって出せない。仮に逃げ道があれば逃げられるかもしれないけれど、多くの場合はそうではない。そしてその全ては、被害者の落ち度ではない。

 それが想像できないのなら、自分自身が拉致監禁されて、拷問されることを想像してみたらいい。縛られて動けず、何の抵抗もできない状態で、何かの秘密を白状しろと言われる。さっさと白状しないと、殴られたり蹴られたり、爪を剥がされたり、肛門に鉄の棒を入れられたりするとしたら、たぶんビビって簡単に白状してしまうだろう。
 しかし、無事に解放された後、周囲からこう責められる。なんで白状したんだ、なぜ抵抗しなかったんだ、なんで捕まったんだ、と。
 さてどう感じるだろうか。

 またこれが教会内部のことで、被害者が児童で加害者が司牧であるなら、暴力の有無にかかわらず、そもそも抵抗などできない。児童だからまだ十分な判断力が備わっていないうえ、司牧を過剰に神聖視する傾向があり、逆らってはいけないと思うからだ。

■虐待被害者のためにできることと、してはいけないこと

 このように多重に苦しむ虐待被害者に、私たちはどのように接するべきだろうか。
 もちろんカウンセリングなどの専門的な援助が欠かせないけれど、そうでない身近なレベルでは、やはり支持的な態度でいるべきだと思う。
 すなわち、あれこれ指示するのでなく、ただ相手の話を聞くこと。
 これはこうだよと勝手に答えを出すのでなく、相手と一緒に考えること。
 それは違うと否定するのでなく、ただ隣にいること。
 相手が話し出すのを待ち、時には沈黙すること。

 逆にクリスチャンとして絶対にしてほしくないのは、たとえばこんなことだ。

「癒されるために祈りましょう」
「それでも神様を信頼しましょう」
「これもいつか益に変えられます」

 こういうのは、言ってる方は善意なのだろうけれど、結果的に被害者を傷つけ、追い詰め、余計に苦しめることになる。
 祈ることの何が悪いの、神様を信頼して何が悪いの、とか言われそうだけど、人間そんなに強くできていない。それは神への信仰ウンヌンの話ではない。人間とはそういうものだと理解しているか否かの話である。

 たとえば、苦しむ人間の行動については、旧約聖書のヨブ記が参考になると思う。ヨブは敬虔な人物だったけれど、死ぬほどの苦しみを味わった時、自分の生まれた日を呪った。つまり、生まれてきたことを後悔した。全ての生命が神から発していることを考えると、それは神を呪う行為と言える。
 ヨブのような敬虔な人物でさえ、苦しみをに際して神を呪う。であるなら、私たちが苦しみの時に敬虔に振る舞えなくなっても不思議はない。それが人間なのだから。でもこの場合の「神を呪う」とは、不信仰を意味しない。神への反逆でもない。むしろ神への悲痛な叫びであり、正直な気持ちの表出であろう。

 虐待被害者に接するのに一番必要なのは、聖書知識でもなく、信仰歴でもなく、どれだけ「霊的」かでもない。一番は人間に対する理解だろう。そしてただひたすら、その人の味方でいることだと思う。

 嫌な話だけれど、いつかあなた自身や、あなたの家族や友人や知人が虐待被害に遭うかもしれない。もちろん私自身や私の身近な人たちも。そうならないことを切に願うし、そのためにこそ神に祈りたい。そして同時に、予防のためにできる具体的なことは何でもしてほしいと思う。

 聖書は私たちに救いや希望や祝福を提示しているけれど、同時に私たちに賢さを求めていると思う。油を余分に準備しておいた娘たちの話や、不正な管理人の話、主人から10ミナ預かったしもべたちの話などみてもそうだ。私たちそれぞれが、できうる最大限の知恵を働かせて生きることを、神は願っていると思う。

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