「祝福」に関する勘違い

2015年8月18日火曜日

クリスチャンと「常識」

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■「繁栄」と同義に扱われる「祝福」

 クリスチャンであれば「祝福」という言葉に馴染みがあると思う。
「祝福がありますように」みたいない言い方は礼拝中の祈りでもクリスチャンがクリスチャンに送る手紙にも何かの応援メッセージにも頻繁に登場する。社交辞令的な意味合いもあるだろう。それはそれでコミュニティ内のコミュニケーションを円滑にする役割もあるから良いと思う。

 この「祝福」の厳密な定義についてここで論じるつもりはない(だから定義屋さんはご遠慮いただきたい)。けれど「祝福」を「繁栄」とほぼ同義にとらえている教会なり牧師なりクリスチャンなりがいる。すなわち「祝福」とは金銭とか成功とか名声とか拡大とか発展とか、そういうものとイコールだとする考え方である。

 それはもしかしたらそれほど間違っていないのかもしれない。おんなじでしょと言う人がいるかもしれない。けれどそれが問題になるのは、「クリスチャンは神から祝福を受ける存在なのだから繁栄するはずでしょ」という考え方に至ることだ。つまり全うなクリスチャンなら(たとえば)経済的に繁栄していて、ひもじい思いなどするはずがない、となる。逆に言うと、貧しいのはその信仰の姿勢に問題があるからだ、罪があるからだ、と いう話になってしまう。

 そしてその傾向は、特に「霊的」を強調する集まりにおいて強い。そこでは「霊的」なものを求める発言が多いけれど、蓋を開ければどれだけ金銭が集まるか、どれだけ成功するか、どれだけ名声を得られるか、みたいないことが「霊的」を測る基準となっている。つまり「霊性」は「物質」に現れる、というのが彼らの主張なのだ。

 彼らは聖書のヨブやパウロの言葉にもうちょっと耳を傾けるべきだと思う。すなわち私たちは「祝福とともに苦しみにもあずかっている」という点についてだ。そこを無視して「祝福」「金銭」「成功」「名声」だけが信仰の報酬であるとするなら、苦しみを受けたヨブもパウロもその他大勢の信仰者らも失格となってしまう。すると、失格者らが書いた聖書にいったい何の権威があるのか、という話にならないだろうか。 

■「祝福」の勘違い

いくつかの有名なクリスチャン映画、たとえば昨年の「神は死んだのか」とか、ちょっと古いけれど「ファイアーストーム」とか、他のもだいたいそうだけれど、ハッピーエンドで終わる。それもクリスチャンにとってのハッピーエンド。

 べつにそれらの作品をどうこう言うつもりはない。あくまでフィクションだし、映画とはある程度のご都合主義と幻想で成り立っているからだ。実際私は「ファイアーストーム」なんかで感動した口だし、娯楽として楽しむ分には良くできているとさえ思う。

 けれどそれらのストーリーをフィクションとするのでなく「主は素晴らしい」「ハレルヤ」「信仰者の勝利」とか現実のことみたいに取り上げると、上記のような「クリスチャンなら祝福されるはず」「繁栄するはず」って話になってしまう。映画の主人公のように、信仰の試練に遭っても耐え抜くなら必ずハッピーエンドが訪れる、みたいな話。

 映画ならそれでいい。約2時間の中でいろいろ葛藤やドラマがあって、でも最後の数分で「祝福」が訪れて、良かったね、で終わる。けれど実際の人生はそこで終わらないし、多分まだまだ続く訳で、その過程ではハッピーと思っていたものがそうでなかったり、逆に苦しく思えたことが良いことに繋がったりする。要するに「塞翁が馬」みたいな山あり谷ありが人生な訳で、それを映画みたいにどこかで区切ることはできない。あるいは区切ってもさほど意味がない。

 なのに生きている限りずーっと祝福が続く、というのはあり得ない。常識的に考えてそうだろう。けれど上記のクリスチャンらはそう信じている訳で、そちらの方がよっぽど不自然だ。頭だけ映画の中を生きている、と言った方がいいかもしれない。

 ということで「祝福だけ」「繁栄だけ」というクリスチャンライフはあり得ない。そういうのを声高に主張する人がいたら聖書とか教理とかちゃんと学んでいないのを露呈しているだけなので、そういう目で見たらいいと思う。あ、そこはクリスチャンらしくあたたかく見守るべきですかね(?)。

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