「インナーヒーリング」に見られる反聖書性

2014年6月11日水曜日

「インナーヒーリング」問題

t f B! P L
「インナーヒーリング」について続き。
 
 前回書いたけれど、インナーヒーリングの問題点は、効果を実証できない点にある。本人も覚えてない「幼少期の傷」を指摘されるけれど、それが本当かどうか確認できず、治療効果も明確でない。そして効果がない理由として「過去の別の傷」を挙げられても、やはり検証できない。結局のところ、終わりのない「過去への旅」をさせられる羽目になる。というのが前回のまとめだ。
 
 インナーヒーリングに熱心になる人々には、共通点があるように思える。大雑把に言うと「自己啓発」タイプだ。
 彼らは長い間、自分の性格や在り方に葛藤を覚えてきた。そしてどうにかして変えたい、変わりたい、より良い人間でありたい、とずっと願っている。その為にいろいろ行動を起こしてきた。けれど、やっぱり変われない現実に何度もぶち当ってきた。そういう人たちだ(その傾向は多少の差はあれ誰にでもあるだろうけれど)。
 
 そういう長い「心の旅路」を経て、幸か不幸かインナーヒーリングにたどり着く。その新しく見える療法は、効果があるように思える。
「幼少期の傷を聖霊によって探り当て、そこに主の癒しを受ける。長く痛んでいた自分の『内なる人』が癒され、解放される」
 そのキャッチコピーは非常に魅力的だ。是非とも受けたいと思う。そして受けた結果、前回書いたようなループに迷い込むことになる(もちろん全員が全員そうという訳ではないだろうけれど)。
 
 タチが悪いのはやはり、効果があるようなないような、結果が判然としない点である。この場合、インナーヒーリングの是非はともかくとして、本人には「治療を受けた」という事実がある。その思い入れは何らかの効果を生む可能性がある。たとえば医学的に言うところの「プラセボ効果」だ。ただの生理食塩水を注射された患者が「症状が良くなった」と認めるのと同じで、インナーヒーリングの体験者が「過去の傷が癒された。自分は変わった」と感じる(思い込む)ことは、十分あり得る。しかしそれはインナーヒーリングの効果でなく、言うなれば自己治癒能力だ。

 もちろん インナーヒーリングが自己治癒能力を発揮する一つのキッカケとなったのなら、それはそれで悪いことではない。けれど、だからと言ってインナーヒーリングそのものが肯定される訳でもない。
 
「過去の心の傷を癒す」というフレーズは響きが良く、映画的で、メルヘンチックだ。実際に精神分析の分野でも長く論じられている。だからクリスチャンがそれに取り組むのも良いことと思われるかもしれない。けれどクリスチャンが規範とすべき聖書は、それについてどう言っているだろうか。
 
 たとえば第二コリント6章17節は、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(新改訳)と言っている。またローマ6章は「私たちの古い人は死んだ」と言い、ピリピ3章13節は「うしろのものを忘れ」たと言っている。過去に戻って癒されなければならないとか、傷があっては不十分だとか、そんなことは言っていない。精神分析なら精神分析で自由にやったらいいけれど、クリスチャンは新しく生まれ変わったはずなので、いちいち忘れた(死んだ)過去を掘り起こす必要などない。それが聖書に立った生き方だと私は思う。
 
追記)
 個別のケースにおいては、過去の出来事が重要となることもあるかもしれない。しかしそれは重篤な精神疾患とか、危機的な精神状態とか、そういう専門的な援助を要するケースにおいてであって、短期の講習を受けただけの牧師がふりかざす「インナーヒーリング」ではどうにもならない。
 
追記2)
 今回の内容については、下記のページを参考にさせていただいた。
 

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