2017年10月22日日曜日

【体験談】忙しすぎる教会のミュージカル(HN:ハミリオンさんの体験談②)

 前回「忙しすぎる教会」と題した体験談をシェアして下さったハミリオンさんから、追加の体験談を頂きました。前回の体験談にも書かれていた「年末恒例のミュージカル」の詳細についてです。さて、「忙しすぎる教会」のミュージカルとは、どのようなものなのでしょうか。

 なお今回も、頂いた原文を私フミナルが編集加筆し、ご本人の了承を得て掲載しています。
 ではどうぞ。

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・忙しすぎる教会のミュージカル(HN:ハミリオンさんの体験談②)

 年末恒例のミュージカルは、伝道活動の1つとして重要視されていました。
 このミュージカルに出演するにはまずオーディションを受けるのですが、前回も紹介した通り、出演希望でなくても全員受けなければならない雰囲気がありました。断るのも一苦労です。

 オーディションには何故か「自己紹介」の時間があって、名前だけでなく学校や学年、部活や習い事の有無まで言わされました。そして部活や習い事をやっているとなると、その曜日や時間まで言う羽目になるのでした。

 ミュージカルの練習が始まると、土日祝日は必ず潰れます。学校行事などで参加できない場合は、事前に監督か関係者に連絡して、了承を得なければなりません。無断欠席などしたら出演させない、などと脅迫まがいなことまで言われます。だから友達と遊ぶなど不可能でした。ひたすら練習です。
 そういう状況ですので、受験を控えた中学3年生や高校3年生は、基本的に出演しません。勉強などできませんから。しかし中には出演する人もいました。受験などどうでもいいと思っているのか、あるいは現実逃避しているのか、よくわかりませんでしたが(中にはすでに進路が決まった人もいました)。

 10月に入るといよいよ練習が厳しくなりました。金曜の夜から泊まり込んでの「合宿」状態です。そこでは食事作りの奉仕もあり、教会の姉妹らが駆り出されるのでした。まさに教会を挙げてのイベントです。
 またミュージカルのポスターやチラシが完成すると、全員総出で職場や学校、近隣の店舗などに貼らせてもらいに出向くのでした。出演しようがしまいが関係ありません。また1枚3千円ほどのチケットも友人知人に買ってもらうべく、皆で営業行脚です。これは小学生や中学生が大きなお金を持つことになるので、正直心配でしたが。

 ミュージカルは全て手作りでした。台本や音楽、振り付け、衣装やメイク、大道具や小道具など、全てスタッフによる自作です。それでいて全員無償の奉仕だったと思います。まさに献身を要求されました。ちなみに舞台に出演できるのは高校生までで、高校卒業後は裏方のスタッフとして関わるようになります。ミュージカルに夢中な人たちが、率先して裏方に徹していました。
 ミュージカルのために教会がここまでするのかな、と見ていて疑問ばかりでした。
 ちなみに、ミュージカルによる伝道効果があるのか定かではありません。

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 以上になります。
 私自身、かつて教会で同じようなイベントを経験したことがありますので、何となく情景が想像できます。私だけでなく、おそらくこの手の教会に通ったことがある方なら誰でも、同じような経験をされたのではないでしょうか。

 あくまで一般信徒の目線から言えば、こういうのは「大変だけど楽しい」イベントかもしれません。文化祭をみんなで頑張って盛り上げよう、みたいなノリの。たとえば出演者は舞台に立って「目立つ」ことで満足感を得るでしょうし、裏方はその舞台を「作り上げた」という満足感を得るでしょう。そういう意味で「楽しい」「夢中になれる」イベントなのかもしれません。
 そしてそういう側面がなければ、こんなふうに何年も続かないのではないかな、と思います(もちろん全員が全員楽しんでいるということではありません)。

 ただそれは信徒側の感覚です。こういったイベント自体を主導する側、つまり牧師側の目線は、また違ったものになるでしょう。

 何ヶ月も前から泊まり込んで練習する(時間的献身)、その準備が最優先される(精神的献身)、舞台製作全般を自分たちで行う(物質的献身)、そしてそれら全てを拒否することができない(しづらい)、というこれら一つ一つが意味するのは、牧師への「絶対的従順」です。牧師の指示命令には全員一丸となって従わなければならない、という雰囲気を作り出すのに、ミュージカルなどのイベントは持ってこいなのです。

 信徒たちは「大変だけど皆で頑張るから楽しい」ので、ある程度の満足感があるでしょう。しかし牧師は「全員を従順なコマとして動かせる」から満足するのです。そしてそれを「神への従順」にすり替えているのです。信徒たちは気づきませんけれど。

 つまり、信徒たちはいいように利用されている、ということです。本人たちはなかなかそうは認めないでしょうけれど。ミュージカルなどの「素晴らしいものを作り上げた」という自負がありますから。
 牧師の思惑は、その背後に隠れているのです。
 また「伝道が目的だ」というのも怪しいと思います。このミュージカルにどのくらい伝道効果があったのか、今回の体験談から読み取ることはできませんが、事実、この手のイベントで新しい信徒を獲得できた、という話はあまり聞きません。「やり遂げた」という内輪の満足感で終わってしまうことがしばしばです。
 しかし少なくとも、「信徒たちを服従させて一つのイベントを実行する」という牧師の目的は、見事に達成されているわけです。

 もちろん、こういう牧師や教会ばかりではありません。しかし、こういう牧師や教会はあります。その事実から目を背けてはならないと、私は思いますね。

 再び体験談を投稿して下さったハミリオンさん、ありがとうございました。
 当ブログでは引き続き皆様からの体験談を広く募集しています。これは皆に伝えたい、知らせたい、注意喚起したい、という体験をお持ちの方、ぜひご投稿下さい。お待ちしております。

2017年10月20日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第63話

 しばらく間があって後、溝田牧師が突然笑い出した。ワハハと声をあげて、いかにも楽しそうに。まわりの皆はどう反応すべきか困ったのだろう、互いに顔を見合わせている。が、徐々に笑いが広がっていく。そして結局皆が笑い出すのだった。
「タタカイ兄弟、君は、君は本当にねえ・・・」溝田牧師は笑いすぎて息も絶え絶えだ。「君は、私のことを神、神様か何かだとでも、思っているのかい?」
 そしてまたワハハと笑い出す。全員が笑っている。笑っていないのはキマジメくんとタタカイ兄弟くらいだ。
「どういうことですか?」
 明らかに不満な様子のタタカイ兄弟が大きな声で言う。
「どうもこうもないだろう!」牧師はまだ笑っている。「なぜ癒しが起こらなかったのか? なぜ霊的な激動が起こったのか? そんなこと私にわかるわけないだろう? 全ては神の御心なんだよ、タタカイ兄弟。なすも神、なさぬも神だ。それでも信仰をもって受け止めるのが、我々神のしもべの務めじゃないのかね? え?」
 一瞬真面目な顔に戻った牧師だったが、また頰が緩んだ。「それなのに君ときたら、なぜですか、なぜですかって・・・」
 堪え切れなくなったのだろう、溝田牧師はまた盛大に笑った。それにつられて皆の笑い声も大きくなる。
「いい加減にしたまえ、タタカイ兄弟。君は将来、お父上の後を継いで牧師になる身だろう」溝田牧師は今度こそ真顔になって言った。「そんな子供じみたこと言ってないで、もっと霊の目が開かれるように祈りなさい。でないと霊的なことがわからない、世俗的な牧師になってしまうぞ」
「まあまあ、タタカイ兄弟はまだまだ若いですからね」
 そう言ったのは溝田牧師の隣に座るリッチ兄弟だ。彼は今回の集会で何かの奉仕をしたわけではないけれど、なぜか反省会に参加していた。理由は誰も聞けない。
「でもお若いのに立派ですね」他の誰かがそう言った。それをキッカケに、そうだそうだ、タタカイ兄弟はまだ若いんだ、だからわからなくても仕方ないんだ、温かく見守るべきなんだ、という声が次々とかかった。そしてそういう雰囲気になった。まるきり子供扱いだ(とキマジメくんは思った)。これではタタカイ兄弟が何を言っても「子供の戯言」みたいに受け取られてしまう。
 タタカイ兄弟自身もそれがわかったようで、苦い顔で押し黙ってしまった。唇を尖らせて、机の下で拳を固く握っている。キマジメくんは見ていられなかった。苦々しい気分なのはキマジメくんも同じだった。タタカイ兄弟が自分自身のように見えた。彼ほど堂々と異を唱えることは自分にはできなかったけれど。
 結局メボ・ルンド聖会に関しては「素晴らしかった」「恵まれた」「また来年もやろう」という話になり、反省会は終わった。話題は早くも次に移った。
「ところでこのところ、強く導かれていることがあります」溝田牧師は相変わらず脚を組んでふんぞり返ったまま言う。指で机をコツコツ叩いている。「それは霊の戦いです。やはりこの地域を霊的に解放する必要があります。今回の集会でもそう痛感しましたね、神の御業が妨げられていると。この地域が解放されなければ、私たちは神の力強い働きを見ることができません。神が御業を現したいと願っているにもかかわらず」
 例によってアーメンという応答が起こる。
 その後も溝田牧師の話が延々と続いた。諸外国が「霊の戦い」でどれだけ解放されたのか、諸外国でどんなすごい御業が起きているのか、日本がどれだけ「閉ざされて」いるのか、日本の閉塞感の正体がいったい何なのか、といった話だった。キマジメくんは聞きながら揺れていた。メボ・ルンド聖会の話はどうも腑に落ちなかったけれど、「霊の戦い」によって状況が変わっていくのなら、辻褄が合うような気もした。神様が正しいのは間違いないし、自分たち人間には全てのことはわからないという溝田牧師の話も、間違いではないと思う。
(やはり自分が未熟だから、こんなふうに感じてしまうのだろうか)
 キマジメくんの思考は、いつも通りそこに行き着くのだった。
 見るとタタカイ兄弟は熱心にメモを取っている。彼は基本的に真面目な人なのだ。そして熱心なのだ。疑問に思えば声を上げるし、おかしいと思えばおかしいと言う。でも神様のために生きたいと願っているのだ。
 キマジメくんは自分のことが恥ずかしく思えた。タタカイ兄弟のようにはっきり反論することができないし、気持ちを切り替えて話を聞くこともできない。いつまでもウジウジと考えてしまう。
(これではダメだ)
 キマジメくんはいろいろ考えるのをやめて、溝田牧師の話に集中しようと思った。そしてメモを取りはじめた。
「といわけで、この教会はしばらくの間、霊の戦いに専心することにします。実は役員会でも全会一致でその結論に達しています」
 長い話の末、溝田牧師はそう結論づけた。「とりあえず明日の夜、7時に全員集まるようにして下さい。詳しいことはそこで話します。今日ここにいない兄弟姉妹にも皆で伝え合うように」
「先生、24時間の祈りはどうしますか」
 誰かがそう言った。「24時間の祈り」とは、溝田牧師のイスラエル旅行以来続いていた活動だ。まだ24時間体制にはなっていないけれど、今も毎晩会堂で行われている。
「ああ、あれね。しばらく休みましょう」牧師は即決した。「休むと言うか、形を変えましょう。会堂で祈るのでなく、外に出て行って霊の戦いをするのです。この地域のために。主がそう願っておられるのですから、私たちは従うのみです。そうではありませんか?」
 アーメン、という応答が起こる。
 しかし「24時間の祈り」は、きたるべく終末に向けた準備として「欠かせない」と牧師が言っていたはずだ。それをこんな簡単に休んでいいのだろうか。キマジメくんは手を挙げてそのことを尋ねようかと思った。しかし先ほどの牧師たちの大笑いを思い出すと、それも躊躇われた。タタカイ兄弟の方をチラッと見たが、彼は特に気にした様子もなく、まだメモを取っていた。
 いずれにせよ、教会はまた忙しくなりそうだった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年10月18日水曜日

【体験談】忙しすぎる教会(HN:ハミリオンさん)

 今回は読者の方から頂いた体験談を紹介します。
 ハンドルネーム、ハミリオンさんが高校時代から数年間通った教会での体験です。
 題して「忙しすぎる教会」
 なおハミリオンさんによる原文を私フミナルが編集加筆させていただき、ご本人の了承を得て掲載しています。
 
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・忙しすぎる教会(HN:ハミリオンさんの体験談)

 私がかつて通っていた教会の話です。
 いわゆる「子供伝道」に力を入れている教会でした。伝道と言っても、楽しいイベントやオモチャやお菓子で子供たちを「釣る」ような感じでしたが。また子供と一緒になって大人たちもワイワイ楽しそうに遊ぶのですが、何とも痛々しく見えました。みんな無理をしていると言うか。

 とにかく忙しい教会でした。
 年4回のキャンペーン、年2回のセミナー、サマーキャンプ、教会創立記念フェスティバル、年末恒例のミュージカルと、いつも奉仕ばかりです。学生やサラリーマンなどは休日返上で奉仕しなければならず、休みなどありません。
 そんな状況だから働く職場も限定されます。日曜は必ず休み、木曜は(祈り会のため)残業なし、転勤不可、など。教会中心の生活を求められます。学生も同じで、部活動などしている余裕はありません。だからみんな中学生になると、部活か教会か選ぶことになります。当然ながら学業も二の次になります(学生の本分は学業だと思うのですが)。
 私は高校時代からこの教会に通いはじめましたが、その時すでに部活動をしていました。すると他の信徒から「まだ部活やってんの?」と、まるで悪いことでもしているみたいに言われました。正直怖かったです。

 教会は「弟子訓練」を取り入れていて、「牧師絶対服従」を教え込んでいます。マインドコントロールのようでした。そのせいか、信徒は上記のような万年奉仕に文句一つ言いません。むしろ喜んで頑張っているようでした。
 そういう人が大多数でしたから、奉仕に参加しないというだけで、罪悪感を感じてしまうのでした。

 年末恒例のミュージカルにはかなり力を入れています。出演希望者はオーディションを受けるのですが、出演希望でなくても受けなければならない雰囲気があります。私も年下の信徒から「(オーディションに)出るよね?」と聞かれましたが、無言の圧力を感じました。ミュージカルに誰もが夢中になっている、そんな空気を作りたいようでした。
 そのミュージカルは平日に開催されます。だから出演者もスタッフも会社や学校を休んで参加するのが当たり前でした(中には積極的に休みたい人もいるようでしたが)。

 教会には数々のルールがありました。
 偶像崇拝禁止、飲酒喫煙禁止、学生は部活動禁止、女性は礼拝では必ずスカートを着用(でも膝丈より短いスカートはダメ)、信徒どうしの連絡先交換禁止、教会内では賛美以外歌ってはいけない、などです。
 でもこれらのルールは明文化されておらず、誰もはっきり教えてくれません。注意されて初めて知るような形です。ずいぶん不親切だなと思いました。

 教会学校の教師が、生徒(信徒)の家に訪問する、いわゆる家庭訪問の制度がありました。しかし私の担当教師は日時など告げずいきなり訪ねてきました。ずいぶん非常識だなと思いました。私の家族はクリスチャンでなく、「家族に伝道しないで下さい」ともお願いしてあったのに、それも破られたようで興醒めでした。
 その教師はサマーキャンプの夜にも信徒と1対1でカウンセリングみたいなことをするのですが、カウンセリングというより説得みたいでした。何とかして私をコントロールしたいようで、重ね重ねウンザリでした。

 おかしいと思うことは他にもありました。
 たとえばあるイベントで射的やチョコバナナなどの出店をしたとき、お客さんに「ありがとうございます」と言ったら、先生に注意されました。「お金を取っているわけじゃないんだからそれは言わないで」とのこと。でもわざわざ来てくれたお客さんに何も言わないのは逆に失礼じゃないでしょうか。
 またイベントの度にサイダーをかけ合ったり、トマトを投げたりパイを投げたり、無駄遣いが多かったです。お金がどこから出ているのか知りませんが、教会がやることなのか疑問でした。
 イベント冒頭にいつも牧師や教師が聖書の話を延々とするのも疑問でした。

 私は大学に進学しましたが、前述のように忙しい教会でしたので、学業に支障をきたすのが目に見えていました。
 だから離れました。(終わり)
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 以上になります。
 忙しすぎる、弟子訓練を導入している、牧師絶対服従を教える、信徒どうしの連絡を禁止する、(部活動などの社会的な)行動を制限する、というのはどれも、教会のカルト化の要因として挙げられているものです。それだけで教会がカルト化していると断定できるものではありませんが、要注意と言わざるを得ません。
 また年がら年中イベント等で忙しいと、それはそれで(人によっては)充実感があるでしょうが、多くの場合疲れてしまって、判断力が削がれ、余計に牧師の言いなりになってしまう、という危険性があります。ひどくなると自分がやっていることの善悪がわからなくなってしまいます。あるいは「不本意だけど、言われたから(神様のために)やらねばならない」という被害的・強制的・義務的な側面が強くなります。ほとんどカルト化の一歩手前みたいな状態です。というかカルト化している教会には、それらの状態が例外なく見られます。

 キリスト教会と言っても本当にピンキリです。実際にはカルト化なんて無縁なところが多いでしょうけれど、中には上記のような教会もあります。よく知らないで通っている方は、注意された方がいいでしょう。

 体験談を寄稿して下さったハミリオンさん、ありがとうございました。

2017年10月16日月曜日

教会(宗教)に必要なもの?

・清水富美加さんの「出家」に思ったこと

微妙に古い話ですが、某宗教団体に「出家」した若手女優、清水富美加さんについて少し。

 富美加さんは芸能活動中だった2017年の初めに突如「出家」して、「出家騒動」などと騒がれました。記憶にある方も多いかと思います。詳しい事情は今もってわかりませんが、おそらくのっぴきならない事情があったのだと思います。あまり騒がないであげてほしいな、と私個人は思いました。もちろん多方面に相当な迷惑がかかったのでしょうけれど。
 今彼女がどうなっているのかわかりませんが、後悔のない生き方ができていればと、願ってやみません。

 私は演技の上手下手はイマイチわからないのですが、富美加さんの表情や喋りはエキセントリックかつマニアックな雰囲気があって好きです。演技というより素なのかもしれませんが、人を惹きつけるものがあります。
 先日も富美加さん主演の映画『暗黒女子』を見ました。女子高が舞台の、歯が浮くセリフ連発の、それでいて女子たちの深い「闇」が描かれた作品です。富美加さんの役は、お高くとまったお嬢様でありながらとんでもない残虐性を隠し持っている、それでいて嫌味がなく潔いという、まさに彼女にピッタリなものでした。


 本筋に関係なくもないので、ちょっとだけ『暗黒女子』の紹介をさせて下さい。
 ミッション系のハイソな女子高で、文学サロンの生徒が1人、屋上から転落死します。彼女はなぜ殺されたのか? それをテーマに、サロンの他の生徒たちがそれぞれの推理を小説という形で展開します。すると生徒1人1人に、彼女を殺す動機があったことがわかります。互いに疑心暗鬼になる中、最後は被害者自身の「小説」が披露され・・・。
 結末まで見るとわかるのですが、富美加さんが全部持ってった感じです。彼女の闇は誰より深く、誰より「暗黒」だったのでした。

 富美加さんが強烈な個性とカリスマ性を持っていることを証明するに足る1本でした。

・教会(宗教)のリーダーとカリスマ性の関係

 富美加さんは「出家」して千眼美子(せんげんよしこ)と名乗るようになりました。そして同じタイミングで教団が開設した芸能プロダクションに所属しました。
 教団側が彼女をいわゆる「特別扱い」したのは、推して知るべしでしょう。良い広告塔になると期待したのでしょうか。その後の話はほとんど聞きませんが、彼女の活動はきっと教団にとってプラスなのだと想像します。

 私はその教団のことはほとんど何も知りません。しかし想像するに、あれだけ大きな団体ですから、カリスマ的な広告塔が必要なのだと思います。信徒を強力に引っ張っていくには、何よりカリスマ性が必要だからです。そして彼女はそれに足る魅力を持っていました。

 これは宗教団体だけの話ではありません。人はいつも魅力的な人物を求めています。政治の世界を見てみても、小泉元首相とか、小池東京都知事とか、スピーチが上手くてドラマチックな展開を見せる人たちに、人気が集中する傾向があります。

 キリスト教プロテスタント系の教会にも、同じことが言えます。いわゆる有名教会、成長著しい教会のリーダーには、カリスマ的な人が多いです。カリスマ的な人だから信徒が沢山集まり、結果的に教会が有名になったり成長したりするのかもしれません。あるいは多くの信徒が集まる中でカリスマ性が増していくのかもしれません。
 中には教会が大きい割に牧師が凡庸(失礼な言い方ですみません)なケースもありますが、そういう場合はだいたい、お父さんがすごいカリスマ的な人物でした。

 余談ですが、お父さんが頑張って大きくした教会を、息子世代がダメにする、というのも結構見ますね。悲しいことですが。そもそもなんで世襲制なんだって話でもありますが。

 教会政治のあり方によって事情は変わると思いますが、概ね言えるのは、教会のリーダーにはカリスマ性があったほうが「有利」だということです。前述の通り、カリスマ牧師は人を集めやすいからです。

「そういうことでなく、純粋にキリスト教教理の素晴らしさだけで勝負すべきだ」と言う人がいるかもしれません。しかし「教えを広める」という性質がある以上、その人物の魅力の有無はどうしても関係してきます。本人がいくら否定したとしても。やはり人間的に尊敬できたり好感が持てたり、好印象を持てたりする相手でないと、多くの人はちゃんと話を聞こうとしません。宗教的な話なら特にそうだと思います。

 ただ教会のリーダー(牧師や宣教師でしょう)に求められるカリスマ性とは、単にルックスの良さではないと思います。それ以上に喋りの技術とか、人との関係を築くテクニックとか、相手を安心させる技術とか、そういういわばコミュニケーション・スキルでしょう。これがうまい人が、前述の有名教会などにも多いです。
 私が知っている外国人牧師も、もう日本語ペラペラなのですが、はじめの二、三言だけでいきなり人々を魅了する力を持っています。あれはまさにカリスマと呼ぶべきでしょう。ルックスは全然そうではありませんが(やっぱり失礼)。この人について行きたい、と思わせる何かを持っています(私はついて行きたいとは思いませんが)。事実、その人の教会は大きいです。

 わかりやすく言えば、教会の大きさとリーダーのカリスマ性は比例する、ということでしょう。もちろん(繰り返しになりますが)教会政治のあり方や教団教派によって、事情が違ってくるとは思います。

・カリスマ性の副作用

 さて、これまでの話をポーンとひっくり返すようですが、私たちが注目すべきはあくまで教理そのものであって、リーダーのカリスマ性ではありません。カリスマ性は人々を魅了しますが、その副作用として人々を思考停止にもするからです。そして信徒が思考停止してしまうと、こと宗教に関しては、あまり良いことがありません。下手すると、リーダーのやりたい放題になってしまいます。

 これは矛盾しているようですが、大切なポイントだと思います。すなわちカリスマ性は人々を集めるけれど、人々を盲目にもさせます。教会を大きくするけれど、リーダーに心酔した信徒ばかりにさせます。クリスチャンを多くするけれど、彼らが「良い」クリスチャンかどうかはわかりません(何をもって「良い」とするかはまた別の話になります)。
 ではどうすればいいんだ、という話ですが、少なくとも私たちは、そういう問題があることは知っておくべきでしょう。そして願わくは、リーダーのカリスマ性をよく理解し、それに魅了されすぎないようにバランスを取ることのできる信徒が増えてほしいものです。

「キリストの教え」と、「その教えを語る人」とは別個に考えましょう、ということですね。
 これは書くと当たり前に見えますが、実際に教会生活を送ってみると、なかなか難しいかもしれません。

 千眼美子さんが今後どういう活動を展開していくのかわかりませんけれど、前述の通り、後悔のない生き方をしてくれればいいなと、同じく宗教に傾倒する者として心から願っています。

2017年10月13日金曜日

元キリスト教原理主義者の雑感・その2

 また雑感として書きます。
「雑感」と書くと、何となく気軽な感じがしていいですね。もともとそんな大それたことを書くブログではありませんが。
 何にせよ気軽というのは大切だと思います。大したことを書こうと思うと、なかなか筆が進みませんから。
 というわけで、今回も割とどうでもいい話になると思います。

・「神の家族」について

 私は原理主義的教会で頑張っていた頃、同じ教会員の皆さんを「神の家族」と呼んでいました。と言っても血が繋がっていたわけではありません。そう教えられていたからです。教会の慣習として信徒どうし「兄弟姉妹」と呼んでいたので(多くの教会がそうでしょう)、「家族」と呼ぶことに特に違和感はありませんでした。親しくても親しくなくても、同じ教会に集っているなら誰であれ「神の家族」なのでした。

 この呼び名について特に考えたことはありませんでした。前述の通りそう教えられていたからです。家族が増えて嬉しいなあくらいに思ったかもしれません。でも教会がイロイロあって解散した後、改めてこの呼び名の意味について、考えるようになりました。

 よく教会ではこんな風に言われていました。
「神の家族は血よりも濃い絆で結ばれている」
 なんか任侠映画のセリフみたいですね、今思うと。とにかく実の家族より強い絆が「神の家族」にはある、ということでしょう。くどいようですが私はそう教えられたので、単純にそうだと考えていました。もともと単純な人間ですし、あれこれ考えるタイプでもなかったので(それは決して褒められたことではありませんが)。

 それにこれは的を射ている面もあります。
 私のように地方から上京して都会で教会生活を送るような場合、遠くにいる肉親より、近くにいるクリスチャン仲間の方が、より「家族的な機能」を果たしてくれるからです。たとえば風邪でダウンした時に実家に連絡しても(遠方だと)どうにもなりませんが、親しい「神の家族」なら見舞いに来てくれます。気軽にご飯を食べたり、買い物に行ったりもできます。それどころか教会生活が何年にも及ぶと、互いのことを知り尽くしてしまって、互いの家のキッチンのどこに何があるかまで把握している、みたいな仲になることもあります。
 もっともそこまで親しくなる人は、そう多くはないですが。

 ただ、その親しさを「神の家族だから」で結論づけるのは早急ではないかな、と今は思います。
 なぜなら、同じ教会員でなくても、親しくなる相手とは必然的に親しくなるからです。そこに「神の家族の絆」が必要になるとは思えません。
 また逆に「神の家族」であっても、親しくなれない人とは親しくなれません。その場合、「神の家族の絆」がちゃんと機能しているとも思えません。そうではないでしょうか。

 そういうことを考えると、「神の家族」とは何なのか、という話になります。
「べつに仲が良いことだけが神の家族ではない」という意見があるかもしれません。「イザという時にちゃんと結束できるのが神の家族なんだ」と。でも人間、イザという時は案外誰とでも結束できるものです。緊急時に見ず知らずの人間どうしが協力する、なんてことはザラにあります。

 それに実際、「私たちは神の家族だ」と言い合っていた人たちが今は心底憎み合っている、というケースは少なくありません。1980年代の「キリスト教会のカルト化」が顕著になった頃から、あるいはそれ以前から、あちこちで同じ教会員どうしの反目は起こっています。大げさな言い方かもしれませんが、同じような歴史を教会も繰り返しているわけです。

 旧約聖書でイスラエルの十二部族について読んでみて下さい。彼らは神に選ばれた民族であり部族であるはずですが、互いに殺し合っています。また新約聖書を読んでみると、教会内で多くのイザコザや争いが起こっていたことがわかります。

 さて、「神の家族」とは何なのでしょう。

 私の実体験から言えることは、教会で重大な問題が起こると、「神の家族」だった人たちが最大の敵になりえる、ということです。ただの敵ではありません。最大の敵です。強い絆で結ばれていると思っていた分、それが拗れた時のダメージが(互いに)大きいのかもしれません。そして拗れるとハンパでない反目、ハンパでない対立、ハンパでない断絶に発展することがあります。もちろん、全員が敵になるわけではありませんが。

 これはあくまで私個人が経験したことなので、全てにおいてそうだ、神の家族なんてインチキだ、と言っているわけではありません。
 しかしながら「神によって結ばれている」とか、「神にあって愛し合うことができる」とか、「苦しい時こそ信仰によって支え合える」とか、そういう綺麗な包装紙で包まれている「神の家族」という表現の中身について、ちょっと立ち止まって考えてみても、悪くはないだろうと思うわけです。

  私の場合で言えば、「神の家族」と思っていた人たち一人一人のことを、実はそこまで深く知っているわけではありませんでした。同じ教会にいて、一緒に礼拝したり奉仕したりしているから自動的に(あるいは思考停止的に)「神の家族だ」と思っていただけで、本当はその人がどんな人なのか、◯◯と言ったらどういう返事をする人なのか、ちゃんと知っていたとは言えません。もちろん人によって関係性は違いますから、気心の知れた人もいました。しかしそうでない人が圧倒的に多くて、それでも平気で「神の家族」と思っていたわけです。
 これは、我ながら不誠実な態度だったのではないかと、反省するばかりです。

 しかし今、同じ教会員のことを「神の家族だ」と言っている人たちは、どれくらい相手のことを知っているのでしょう。どれくらいの絆で結ばれているのでしょう。けっこう怪しいのではないかと思いますが(あくまで想像です)。
 少なくともキマジメくんの教会は、間違いなく「教会員はみな神の家族」であると主張しますが、実はお互いのことをさほど知っているとは言えません。深い絆で結ばれているわけではありません。何かあればその関係性は簡単に破綻していくでしょう。
 なぜそうハッキリ言えるのか? そういう設定だからです(笑)。

・教会で傷ついた人にしてはいけないこと

 教会でイロイロ酷いことがあって、結果的に解散になって、さてこれからどうしようとなった時、私はクソ真面目でしたので、「どこか他の教会に行かなければ」と思いました。本当だったらしばらく教会は行かなくても良かったと思うのですが、まあそれができなかったわけです。
 他にもそういう真面目な人がいましたし。

 で、言い方が悪いかもしれませんが、いくつかの教会を「お試し」させてもらうことにしました。いろいろな教団教派を見てみたかったのです。そしてそれぞれ違う教派の、場所的にも時間的にも行きやすいところをいくつかチョイスしてみました。その中には(知り合いの紹介もあったので)ある聖霊派の教会もありました。聖霊派とは私の古巣のグループです。

 教派によって礼拝スタイルが全然違うのに驚きましたね。当たり前なのでしょうけれど。その中で、勝手がわかっているという意味で一番落ち着いたのはやはり聖霊派でした。長年そういう礼拝をしてきたので、これも当たり前と言えば当たり前なのですが。

 しかし思わぬ落とし穴がありました。
 その聖霊派教会の祈祷会(?)みたいなものに参加した時、リーダーからいきなりこう言われたのです。
「代表の祈りをして下さい」
 教会で頑張っていた頃は、代表の祈りは普通にしていました。しかし前述の通り教会で紆余曲折あって後の私は、すっかりそういうことができなくなっていたのです。具体的に言うと、祈れなくなっていました。
 もちろん「形」だけならできるのですが、心からの祈りは捧げられませんでした。だから「代表の祈り」を頼まれて、正直困ってしまいました。私の境遇を知っていてよくそんなこと言えますね、とも思いました。そんなふうに困惑や疑問や怒りでグルグルしたまま、全然心のこもっていない祈りを捧げて、その場は収めましたが。

 これを読んで下さった皆さんには、このリーダーを反面教師にしてほしいですね。すなわち、教会で傷ついた人に「代表の祈り」とかさせないで、そっとしておいてあげてほしい、ということです。あえて言葉を掛ける必要もありません。なんでもない雑談をして、じゃあまたねーって気軽に見送ってあげてほしいです。話を聞いてあげようとか、助けてあげようとか、そういう心遣い自体は嬉しいのですが、あまり求めていません。
 これはもちろん私の場合の話なので、他の人はまた他の対応を望むのかもしれませんが。

 というわけで今回の雑感終わりです。(続く?)