2017年6月27日火曜日

クリスチャン流、パワハラとの向き合い方

・ストレスのせい?

少し前、某女性議員の秘書に対する暴言暴行が発覚しました。
 おそらく継続的に被害に遭っていただろう男性秘書が、ボイスレコーダーで証拠を保存し、公開したのです。それまでに辞めた秘書が百人近くいたそうなので、その議員の暴言暴行は恒常的だったと推測されます。

 その証拠音声はイロイロなところで流されましたから、聴いた人も多いと思います。なかなか衝撃的でしたね。

 謝罪行脚の最中の出来事だったようで、「ストレスが高じていた」というのが今回の暴言暴行の理由とされているようです。それは間違いないんじゃないかと私は思います。大変なストレスだからって部下に暴言暴行していいわけはない、と言われて当然な理由ですけれど。
 要は、こういうことです。

 人は強いストレスに晒されると、本性を現す。

 前にも書いたことがありますが、ある宣教師が、他の牧師たちと議論になった時、激昂して怒鳴り散らしました。ちょっとここでは書けないような内容の罵り方でした。宣教師は後から「あれは義憤だった。神による怒りだった」みたいな言い訳をしましたが、結局謝罪の一言もなかったので、驚きましたが。
 けれどその宣教師は普段から話し合いの場で声を荒げることが多かったので、たぶん義憤とか神とか関係なく、短気な性格なのだと思います。それも単に短気なだけでなく、怒りをコントロールできないタイプの。
 要はそれが本性で、ストレスが高じて表面化した、ということだと思います。

 だから件の女性議員にしてもその宣教師にしても、一時的なストレスで暴言や暴行が「たまたま」出てしまった、ということでなく、もともと「ストレスが高じると暴言暴行に走る人」なのだと考えられます。もちろん「ストレスが高じた→即、暴言暴力」というわけではありません。ストレスが高じ、かつ「暴言暴行しても大丈夫な相手」が目の前にいると、そういう行動に出ると考えられます。

・べつに珍しくないパワハラ

 この件を受けて、別の議員が「こんなの珍しくない」みたいな発言をしています。それはそれで問題だろうと思うのですが、まあ事実そうなのだろうとも思います。この手のパワハラは、なんの統計データもないですが、おそらく多いと推測されます。

 キリスト教界をみてみても、司牧によるパワハラは、歴史的に度々認められてきました。
 最近の話だと、カトリック教会の司祭による数々のセクハラが、ボストンの新聞社によってスクープされました(映画『スポットライト』で描かれています)。日本だと聖神中央教会の牧師による連続女児強姦事件が発覚しています。
 またそこまで大きくない、日の目を見ないケースも、数多くあると思います。

 身近なところでも、聖霊派・福音派の(一部の)教会のパワハラ話はけっこう聞きます。私の知っている牧師にも、若い信徒に対する暴言なんて日常茶飯事なのがいます。なんなら「説教してやってるんだ」くらいの勢いです。悪いなんてちっとも思っていないようです。

 笑えない笑い話ですが、ある礼拝のリハーサル中のことです。信徒が思い通りに動かなくて、牧師が激昂してしばらく怒鳴り散らしていました。信徒はみな静まり返って下を向いています。ところでその礼拝はネット配信されることになっていましたが、スタッフの手違いで、リハーサル中から既に配信されていました。当然牧師の怒声もネットに晒されていたはずです(リアルタイムでなければ見られなかったでしょうが)。
 そのことに気づいた牧師が、急に口調を緩めたのが、何とも情けなかったですね。
「なんだよ〜、これじゃあ僕が超厳しい人みたいに思われちゃうじゃんか〜」とかなんとか言い訳をしていましたが、もう絶句するしかありませんでした。

 要は、パワハラをする人間は、パワハラをしても大丈夫だと思われるTPOをわきまえているということです。件の女性議員だって、その車内の様子が全国ネットで流されるとわかっていたら、暴言どころか箴言の一つでも語ったことでしょう。抵抗できない弱い哀れな秘書一人だった(と思った)から、やりたい放題できたのです。

 だから優しそうな人とか、素晴らしい人格者とかに見える人が、その外見のままの人物かどうかは、残念ながらわからないのです。キリスト教の司牧だからって、簡単に信用してはいけません。

・もしパワハラに遭ったら

 会社の上司とか教会の司牧とかがそのようなパワハラ人間だったら、それに従う人々は大変です。TPOさえ揃えばパワハラされかねませんから。
 可能ならば、そういう環境からは早々に離れることをお勧めします。耐えて頑張ったって、ほとんど何も解決しません。こういう場合に「祈って待てば大丈夫です」みたいな無責任な助言をする人がいますが、パワハラを助長するだけです。

 逆にパワハラに立ち向かおう、戦おう、と考えるのは立派なことですが、あまりお勧めしません。教会内で牧師に逆らっても、牧師の味方が沢山いるので、余計に辛くなるだけですから。
 またどれだけ戦ったところで、牧師のパワハラ体質が変わることはありません。やるなら法的措置くらいになるでしょう。でも教会内のパワハラは証明が難しいでしょうから、これもまた困難な道になります。それよりは早々に離れた方が、ずっとラクかもしれません。

 一つの教会に一生所属しなければならない、なんて義務はありません。一部の教会は「人にはそれぞれ植えられるべき教会がある」などと主張して信徒を囲い込もうとしますが、そんな根拠は聖書にはありません。そのように(勝手に)解釈しているだけです。だから牧師の態度があまりに理不尽だと感じるなら、さっさと離れた方が良いです。なにも遠慮することはありません。自分自身を守ることが先決です。教会を離れたら神の怒りを買うとか、そんなことはありません。

・クリスチャンの強み

 パワハラ牧師の話ばかりになりましたが、これは残念ながら牧師だけの話ではありません。先輩信徒が後輩信徒をイジメることもあれば、教会学校の先生が子供たちをイジメることもあります。
 要は、自分より弱い存在がいて、自分がその存在を自由に扱える立場にあると、人はパワハラに走りやすくなる、ということだと思います。皆が皆そうだとは思いませんけれど。

 しかしクリスチャンにとって朗報は、「主がいつも見ておられる」という感覚を持てることです。神様がいつも自分と共にいて、自分のすることを見ている、と考えるならば、弱い者イジメに歯止めがかかるかもしれません。また「小さい者の一人にしたのは私にしたことだ」という言葉を思い出すなら、相手を神様のように扱うことができるかもしれません。もちろんそういう感覚だけで、怒りや暴力の衝動を完全にコントロールできるとは思いませんが、一つの助けにはなると思います。

 また私たちは、学ぶことができます。先人たちの偉業に学ぶこともできますし、その失敗を反面教師とすることもできます。
 件の女性議員の顛末は、私たちに大切な教訓を示していると思います。その教訓をキャッチできるかどうかは、若干大袈裟な言い方かもしれませんが、私たちの将来を左右することになるかもしれません。

2017年6月25日日曜日

我慢できる/できない恋愛?

・「我慢できない」恋愛

最近、某アイドルのこんな発言がありました。

我慢できる恋愛は、恋愛じゃないです

 突然の「結婚宣言」で物議を醸したアレです。私は某アイドルにもそのグループにも関心がないので、好きにして下さいとしか思わないのですが、このセリフは、なかなか名言だなあと思いました。大袈裟な言い方ですが、真理を含んでいると思うからです。

 我慢できる恋愛は恋愛じゃない、ということは、「真の恋愛は我慢できるものじゃない」ということでしょう。地位や名誉や仕事や実績や、そんな全てを投げ打ってでも「真の恋愛」には得る価値がある、というわけです。なかなかロマンチックじゃないでしょうか。いろいろな制約に我慢しながら地道に恋愛している人たちにはケンカを売っているようですが。

 乱暴にまとめると、彼女は仕事より恋愛を取った、ということだと思います。そしてそれ自体は否定されるものではないでしょう。いろいろ批判の声もあり、そちらにも一理あるとは思いますが。
 でもどんなことであれ、最終的には本人の選択が全てだと思います。他人にどうこうできるものではありませんから。その決断が常識的にどうなのか、道義的にどうなのか、というのももちろん大切ですし、その結果にも責任を持たなければならないと思いますが。

 いずれにせよ彼女には、最近トレンドになったこのセリフを私は贈りたいです。
「でも幸せならOKです」

・クリスチャンの若者の場合

 ではクリスチャンの若者の「恋愛」について考えてみましょう。
 これまた教団教派によってイロイロでしょうが、私が属していた福音派・聖霊派界隈では、概ね次のようなことが言われていました。

神にある恋愛は(イロイロな意味で)待つことができるものだ

 クリスチャンの男女交際は、まず結婚が前提としてあるべきだ、という話から始まります。
 次に結婚するまで「きよい関係」を保たなければならない、と続きます。
 何かにつけて「待つこと」が求められます。
 たとえば、ある年齢に達するまで二人きりでデートしないとか、婚約するまで手をつなぐ等の接触はしないとか。その他にもいろいろ。猪突猛進に進みたいところをぐっと堪えてタイミングを待つ、それがクリスチャンの恋愛だ、みたいな感じです(一部の教会だけの話かもしれませんが)。
 上記のアイドルが「恋愛は我慢できるものじゃない」と言うのに対して、キリスト教(の一部)は「我慢するのが恋愛だ」と言います。完全に相容れない感じです。

 知り合いのクリスチャンにも、長年プラトニックな交際を続けた(と思われる)男女がいて、ついに牧師の許可を得て結婚に至ることができた、というケースがあります。彼らは相当「待った」ことでしょう。なんで結婚するのに牧師の許可が要るのか若干意味不明なのですが、まあそこは彼らの「信仰」でもあります。

 彼らのような「清廉潔白な交際」に憧れるクリスチャンの若者も少なからずいるようです。若者たちに「純潔の誓い」なるものを推奨する教会もあります。それらはべつに悪いことではありません。早まって痛い目に遭うより、待って失敗を避ける方が賢いのかもしれませんから。親がクリスチャンであるなら、尚更それを望むことでしょう。まあそこは考え方次第でしょうが。

 一方で、やはりクリスチャンとはいえ「待てない」若者たちもいます。こちらは例を挙げるとキリがない感じですが。でも悪い話ばかりではありません。牧師や教会からしたら「不誠実な」交際を選んだ若い男女が、のちに立派なクリスチャン家庭を築いた、というケースもあります。一概に「待つ」だけが最善ではないのかもしれません。

 その手の話、特に信徒の恋愛話でいろいろ苦労されてきた牧師が、こんなことを言っていました。ものすごい実感をこめて。

本人たちが(恋愛に)盛り上がっちゃったら、もう(どんなに止めても)どうにもならないんですよね

 そうだろうなあと思います。クリスチャンとしての理想がどうあれ、現実はそううまく行くものではありません。もちろん個人差があるでしょうし、恋愛に全く関心を示さない人もいるでしょうから、一概に言うことはできませんが。でも大概の若者は、恋愛の魅力には弱いんじゃないかと私は思います。クリスチャンである前に、彼らも「若者」ですから。そういうケースもイロイロ見てきました。
 というわけで、上記のアイドルの発言が、リアルに迫ってくるわけです。「恋愛は我慢できるものじゃない」と。

・清廉潔白な交際?

 さて、恋愛を乱暴に大別して、「清廉潔白な交際」と「我慢できない交際」とに分けるとします。
 するとクリスチャンの若者たちに求められるのは、たぶん前者の「清廉潔白な交際」になるでしょう。おそらく若者たち自身の多くも、そうあるべきだと考えていると思います。でも実際にはそうできなくて、葛藤することも多いと思いますが。

 私自身は、クリスチャンなら「清廉潔白な交際」でなければならないとは思いません。一方で「我慢できない交際」を推奨する気もありません。こういう話になると「婚前交渉なんてけしからん」という意見が出ると思いますが、べつに婚前交渉を推奨する気もありません。
 ただ状況は人それぞれなので、「必ず○○でなければいけない」「○○でなければ神の御心でない」と断定できるものではない、と思うわけです。たとえば(嫌なたとえですが)、望んだわけではないのに性交渉を持つことになってしまった、という人もいるでしょう。すると彼ら彼女らは、すでに「御心」から外れてしまったのでしょうか。神の愛はもう彼ら彼女らにとどまっていないのでしょうか。

 全ての人が「清廉潔白な交際」でなければならない、と若者たちに押し付けるべきではないと私は思います。そういう交際方法もあると教えるのはもちろん良いですが、選ぶのはあくまで若者たち自身なのです。選択の自由を奪い、清廉潔白さにだけ価値を置くのは、一方的ではないでしょうか。
 もちろん「それは若者たちを守るためだ」という意見もあるでしょうし、それにも一理あるとは思います。けれど無理やり従わせても、若者たちを守ることにはなりません。

 信徒の若者たちの恋愛に介入しすぎる牧師がいました。その牧師は日常的にこんなふうに言っていました。
付き合いたい相手がいるなら連れてこい。ふさわしい相手かどうか見てやる
 つまり、交際するには牧師の許可がいる、ということです。結婚相手を親が決めていた時代ならべつに違和感のない話かもしれません。でも親でも親戚でもない第三者の牧師が信徒の交際相手を決めるというのは、信徒を私物化しているとしか思えませんが。それにこれ、一歩か二歩まちがうと、統○教会と同じようなことになる気がします。

・「神様が決めた相手」って何

 若者たちに積極的に恋愛について話す教会は、よくこんなふうに言います。
あなたには神様が決めた相手がきっといるんだから、祈って待ちなさい」

 つまり恋愛にしても交際にしても結婚にしても、クリスチャンなら「ふさわしい相手」が(神様によって)すでに用意されている、という考え方です。アダムにも神様がエバを用意したでしょう? イサクにはリベカがいたでしょう? というわけです。

 この考え方は、「自分で勝手に決めた相手」と対比されます。神様にうかがわないで、「この人がいいなあ」と自分の一存で交際した相手が、この「自分で勝手に決めた相手」になります。そしてこの相手を選ぶと、絶対にうまく行かないぞ、必ず不幸になるぞ、祝福を逃すことになるぞ、みたいな呪いの言葉を周囲からかけられます。
 それに比べて「神様が決めた相手」は完璧だ、とされます。自分にピッタリで、互いに支え合うことができ、励まし合うことができ、信仰を育み合うことができ、素晴らしい関係を築くことができる、とされます。
 だから若者たちの多くが「神様が決めた相手」を求めて熱心に祈ることになります。

 でもこれはちょっと短絡的だと思います。
 この「神様が決めた相手」をどうやって判断するのか、という問題が前提としてありますが、それを置いておくとしても、交際も結婚もそんな簡単なものじゃないからです。どんな相手であろうと、そもそも「他人」なので、一緒にいればイロイロ擦り合わせたり、譲ったり譲られたり、我慢したりケンカしたり、紆余曲折あるのが普通です。ストレスフルなこともあるでしょう。難しいこともあるでしょう。おそらく「神様が決めた相手」だと確信して交際をスタートしたとしても、どこかで「本当にこの人だろうか」と疑いたくなると思います。
 これは男女交際だけの話でなく、全ての人間関係にも言えることでしょうが。

 だから「どうやって交際相手を決めるか」より、「どうやって交際を続けるか」の方がはるかに重要なはずです。
 クリスチャンの若者たちには、「神様が決めた相手とそうでない相手」について講釈するより、「人とどう付き合っていくか」を詳しく教えてあげるべきではないでしょうか。
 人とどう付き合っていくべきか、すなわち相手を尊重すること、自分自身を守ること、両者にとっての最善を考えること、何を優先すべきか考えること、などを理解していくなら、「清廉潔白な交際」対「我慢できない交際」という対立軸も、「神様が決めた相手」対「そうでない相手」という対立軸も、あんまり意味がなくなっていくと思います。

2017年6月19日月曜日

「福音の三原則」では語れないもの

・ふくいんのさんげんそく?

「福音の三原則」とも「救いの三原則」ともいう言葉があります。一部のキリスト教原理主義的な人がよく使っています。SNSなんかでも、この言葉を連呼しているアカウントを見たことがあります。

「福音の三原則を信じ受け入れないと救われない」
「福音の三原則をちゃんと押さえているかどうかでその人の信仰がわかる」

 みたいなことが言われています。
 個人が個人の立場で発言するのは基本的に自由なので、べつにそれ自体にどうこい言うつもりはありません。
 ただこの三原則、内容は、

「①キリストは私たちの身代わりに十字架で死なれた」
「②死んで埋葬された」
「③3日後に復活された」

 らしいです。でも、なんで福音をわざわざこの三原則に絞る必要があるんだろう? というのが私には疑問でなりません。なぜなら福音と言ったら、天地を創造した神様とか、人間の原罪とか、なんでキリストが私たちの身代わりになったのかとか、キリストの復活は何を意味するのかとか、復活してその後どうなったとか、そのへんまでちゃんと理解しないと、いわゆる「福音」の知識としては不十分だと思うからです。どうしてその中の一部分である死、埋葬、復活、だけを取り上げて「三原則」と名付けなければならないのでしょう? アシモフの「ロボット三原則」の真似がしたかったのでしょうか?(そんなわけない)

 おそらくこの三原則の根拠は、コリント第一の手紙15章3~4節にあるのでしょう。上記の①~③が「最も大切なこと」として書かれているからです。 そこを否定する気はありません。

 ただこの文脈は、読んでいただければわかりますが、4節はまだ話の途中です。5節に繋がっていて、「(キリストが復活後に)弟子たちに現れたこと」というのが上記の①~③に続く④として位置づけられています。だから文脈として区切るならば、三原則でなく四原則とすべきでしょう。あくまで文脈として区切るならば、ですが。
 いずれにせよ、「福音」がこの三原則あるいは四原則で完結するわけではありません。
 また、パウロ自身もそういう書き方をしていません。
 もちろん、「それが福音の重要な部分である」ことは間違いないでしょう。私もそれには同意します。けれど、だからと言って「それが福音の全てだ」とはなりません。だから「その三つさえ受け入れれば救われる」というのは「?」です。前述の通り、福音はもうちょっと広い範囲で語らないと正しい理解にならないからです。

 だから、繰り返しますが、なんでその一部分だけ取り上げて「三原則」などと大袈裟に表現しなければならないのか、ちょっと理解できません。わかる人がいたらぜひ教えていただきたいです。


・怒れる神、許しの神

 そもそもですが、
「この三つを信じ受け入れなければ救われない」
 という言い方自体が疑問です。

 なんというか、厳しく窮屈な感じがします。余裕がありません。キリストのメッセージは明確な「愛と許し」なのに、これでは愛されていない、許されていない気がします。
 その三つが間違っている、と言いたいのではありません。それらは福音を構成するうえで必要でしょう。でもそういう風にガチガチに「救いの条件」として表現することで、「愛と許し」のメッセージとの整合性が、取れなくなる気がします。

「あなたがたは神に愛されている。赦されている。でも福音の三原則を信じなければ、救われない」
 もしキリストが真顔でそう言ったとしたら、この人もしかして両極性障害なんじゃね? と私は勘繰るでしょう。言ってることが正反対だからです。
 たとえば、あなたに子供がいるとして、あなたはこんなこと言うでしょうか。
「わたしはあなたを愛しているよ。でもあなたがこの三つのルールを守らないなら、もう愛しませんよ」

 もしそう言うとしたら、その「愛」というのは、条件付きです。神が人を、あるいは親が子を、一方的に愛する「愛」ではありません。「これらのルールを確実に守るなら愛してあげよう」みたいな話になってしまいます。
 でも新約聖書を読む限り、イエス・キリストが相手に条件付きで接した、という記述はありません。しいて言うなら、取税人や娼婦といった社会的に不利な立場の人々に積極的に関わった、とは言えましょう。でもそこに「福音の三原則を信じているかどうか」という視点はなかったはずです。むしろそういうことを十分に理解していない人々を、積極的に愛したのではないでしょうか。

「○○しないと救われない」
「○○しないとダメだ」
 このような言い方は、旧約に登場する「情け容赦ない神」のイメージを想起させます。敵を皆殺しにし、罪を犯したイスラエル人を容赦なく抹殺した「怒れる神」のイメージです。
 一方で「あなたは無条件に愛されている」「無条件に許されている」というセリフは、新約のイエス・キリストを想起させます。罪を犯した人たちを許し、彼らの身代わりになることを決めたキリストの、「許しの神」のイメージです。

 さて、いわゆる「キリスト教」はどちらでしょう。「怒れる神」を崇める宗教なのか、「赦しの神」を崇める宗教なのか。
 前者だとしたら、「福音の三原則ガ―」という厳しい条件がお似合いでしょう。愛も許しも不要で、ただ「ルールを守っているかどうか」だけが判断基準となるからです。でも後者にはその考え方はそぐいません。

・キリストの愛はルールを越える

 ヨハネの福音書8章1~8節をぜひ読んでみて下さい。
「姦淫の女」の話として有名なので、ご存知の方も多いでしょう。
 ここでキリストは重要なことを言っています。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」

 キリストは決してルール(律法)を軽視していたわけではありません。姦淫の女に対して明確に「石を投げなさい」と言っていますから。律法によると、姦淫の女は石打の刑に処せられる、とあります。
 でも同時に言っているのは、「罪がないなら石を投げなさい」ということです。つまり「あなたがたは皆同じ罪人なのですよ」「彼女だけが特別罪が重いのではありませんよ」と言っているのです。だから彼女に石を投げることは、結果的に自分自身に向かって石を投げることだ、ということです。彼女を罰するならば、めぐりめぐって自分自身をも罰することになる、ということです。

 そしてこの「罰」のスパイラルを抜け出す方法として、あるいはルールを越える方法として、キリストは「許し」を提示しているのです。 クリスチャンの方には今さら言うまでもないことですけれど。

 繰り返しますが、「福音の三原則」として挙げられている三点が、福音を理解するうえで大切なのは間違いありません。何度も言いますが、そこを否定しているのではありません。
 そうでなく、キリストの視点(あるいは愛)は、きっとそういう原則理解や原則厳守を越えているんだ、と私は思うわけです。

 たとえばですが、精神発達障害を持った人や、脳に後天的なダメージを負った人は、(その程度にもよりますが)十分な思考力や判断力を持てないことが多いです。「福音の三原則」なんか、理解できないかもしれません。じゃあそういう人々は、決して救われないのでしょうか? キリストは彼らを愛していないのでしょうか?
 でも理解力のない人をキリストが愛さないとしたら、私たちだっていずれは、その愛から漏れることになるのですが。私たちの多くは、老齢になれば理解力を失っていくので。

 キリストが十字架につけられた時、両隣にも罪人がいました(ルカの福音書23章)。一人はキリストを罵り、もう一人はキリストを神と信じました。キリストは後者の罪人に向かって、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言いました。つまり彼は、「救われた」と言えるでしょう。
 でも厳密なことを言えば、彼は「福音の三原則」を信じたのではありません。ただ十字架にかかっているキリストを見て、「この人は神の子だ」と悟ったに過ぎません。そしてキリストはそれを良しとされたのです。原則がどうとかいう話は関係ありません。

 だから福音に三原則とか四原則とか付けても、それでキリストの意図を十分に理解したことにはなりません。むしろ誤解してしまうかもしれません。
「福音の三原則」を声高に主張するのであれば、そのへんのこともじっくり考えてみてはどうかと私は思います。


2017年6月9日金曜日

宗教で自己実現して何が悪い・・・?

 最近、個人的にのっぴきならない事がありました。詳細は書きませんが。それに対処すべく、あちこち連絡したり、あれこれ手配したり動き回ったりの数日間でした。ちょっとブログどころではなかったです。
 まだスッキリ解決したわけではありませんが、とりあえず一息ついたので、これを書いています。
 以上、更新が遅れた言い訳です。

・隠れシャーマンあらわる

 ところで面白い記事を見つけました。以下にリンクを貼ります。

“隠れシャーマン”が増加中。若い女性が続々崇拝、ヨガの次にきている「シャーマン教」って?

 いわゆる「無神論」な若い女性たちの一部は、既存の宗教には否定的だけれど、それでいて「超自然的な存在」そのものは信じているようです。そしてヨガや水晶玉やタロットカードや占星術や、呪術や魔術や降霊術やシャーマニズム等といった、オカルティズムに傾倒している人が、少なくないようです。
 中でも今は「シャーマン」がきているようです。それも専業でなく、週末とか仕事帰りとかの隙間時間を生かした「隠れシャーマン」が増えているとか。

 それが実態としてどれくらいの人数なのか定かでありませんが、これは「ある」だろうなあと思います。いわゆる「スピリチュアル系」と似たようなものかもしれませんが。
 人間にはもともと超自然的なものを求める心が与えられている、というようなことが聖書に書かれています(箇所はご自分で探して下さい)。だからキリスト教とかイスラム教とか仏教とか信じてなくても、「人間を超越したもの」という意味の「神」という概念なら、わりと多くの人が持っているのかもしれません。
 頑固なまでに無神論を主張する人でも、死の間際になると「神様」と口走ってしまうこともあると聞きます。

 余談ですが「生命の神秘」について考えてみると、より「神様」という考え方がシックリきます。たとえば人間の体なんかは、とても複雑で、かつバランスのとれた構造に仕上がっています。こういうものが「自然発生的に」出来上がるとはなかなか考えられません。何かの意図がそこに働いているのでは? そこに超優秀な設計者がいるのでは? と考える方が、むしろ「自然」な気がします。
 そのような意味で、私たちは「人間を超越したもの」の存在を、どこかで意識しているのかもしれません。何かの宗教を信奉しているかどうかに関わらず。

 で、隠れシャーマンです。具体的にどんな活動をするのか知りません。たぶんクリスチャンの人が見たら眉をひそめるような内容もあるかもしれません。でもその方法論、たとえば祈祷とか瞑想とか肉体的修練とか、そういうのはそれ自体が目的となっている訳ではないようです。それよりストレス軽減とか、メンタルやフィジカルの管理とか、コミュニケーションスキルの向上とかの「自己啓発」が目的になっているようです。
 だから究極的なところで言えば、その目的を達成できるなら、シャーマンでもヨガでも、実は何でもいいんだと思います。「ご利益」にあずかれさえすれば。

 要は宗教でも何でもいいから利用できるものは利用して、自己実現したい、ということだと思います(そしてそれは悪いことではありません)。

・キリスト教も自己実現に使われている

 と、いうようなことを書くと、たぶん真面目なクリスチャンの方は、「宗教を自己実現に使うなんてけしからん」というような感想を持たれることでしょう。
 
 でも私に言わせれば、キリスト教だって、多くのクリスチャンが自己実現のために利用するツールとなっています。純粋に神様を愛したいとか、神様にお仕えしたいとか、綺麗なことはイロイロ言えますが、その実態は必ずしもそうではありません。そういうケースを沢山見てきましたから。

 だから「自己実現のために隠れシャーマンやってます」と臆面なく言う方が、よっぽど正直ではないかと私は思います。「キリスト教は自己実現のための宗教ではありません」と言いながらやっていることは自己実現、という方が、はるかに不誠実ではないでしょうか。

「神に語られた」と言って信徒たちを利用し、いくつもの事業を展開して有名になりたいだけの牧師とか、高額な借金を教会に負わせて豪華な牧師館を建てたい牧師とかの方が、えげつなく神を利用しています。最高スペックのノートパソコンを教会のお金で購入しても結局ワードとパワポしか使えてない牧師とか、わざわざツヤツヤキラキラのスーツで他教会の集会に行く牧師とか、どれだけ見栄を張りたいんでしょう。そういう人たちが講壇に立って誠実そうに話しても、全然誠実には見えませんけれど。私には。

 隠れシャーマンを批判するのは簡単ですが、そういうキリスト教の実態について考える方が先ではないかと私は思います。隠れシャーマンと呼ばれる彼女らがシャーマンを選んだのは、既存の宗教(キリスト教など)に魅力を感じなかったからでしょう。こう言うと「宗教は魅力の有無でするもんじゃない」という意見がきそうですが、じゃあ逆に魅力が全然なかったら、あなたはなんで神様を信じたのですか? という話です。誰だって何らかの魅力を感じたから、クリスチャンになったはずでしょう。

・宗教で自己実現して何が悪い

 そもそもの話ですが、キリスト教(というか宗教)で自己実現を考えて、何がいけないのでしょう。
 キリスト教を信じた理由やキッカケは人それぞれでしょうが、(言い方は悪いかもしれませんが)何らかの魅力やメリットを感じたはずです。「信じれば救われる」とか「信じれば天国に行ける」とかいう単純な理由だったかもしれませんし、キリストの教え(山上の垂訓など)に感動したのかもしれません。そのように生きたいと願ったのかもしれません。いずれにせよ、それが自分にとって「益」であったはずです。

 つまり「よりよい自分」となるために、キリスト教を受け入れたはずです。そしてその意味では、クリスチャンなら誰もが、自己実現のためにキリスト教を信じていると言えます。

 たとえばですが、教会でゴスペルを頑張っている人たちは、「ゴスペルを通して神様に仕えたい」と願っていると思います。と同時に「そのような自分でありたい」とも願っているはずです。あるいは「教会の活動を通して誰かの役に立ちたい」と願っている人は、「そのような自分でありたい」とも願っているはずです。つまり「奉仕」には、それがどのような形であれ、どうしたって自己実現が含まれるのです(繰り返しますが、それは悪いことではありません)。

 すると、クリスチャンも、隠れシャーマンである女性たちとあまり違わないことがわかります。違うのは、彼女らが正直に「シャーマニズムを通して自己実現したい」と言っているのに対して、クリスチャン(の一部)は「宗教で自己実現なんてけしからん」というウソをついている点です。自己実現したいのを隠して綺麗事ばかり並べるクリスチャンにくらべれば、隠れシャーマンの方がよほどポジティブで、好感が持てるのではないでしょうか。

 まとめ。
  宗教には自己実現が含まれています。だから宗教で自己実現を図るのは悪いことではありません。悪いのは自己実現という願望を隠して綺麗な宗教家を気取ることです。

2017年6月3日土曜日

聖書を使ったイジメの1つ:「できない」と言うな

「聖書を使ったイジメ」シリーズが、意外と長く続いています。私自身驚いています。

 聖書の言葉は本来良いもののはずですが、使う人が使うと、どんな言葉でも(解釈次第で)イジメの道具にもなる、ということだと思います。またイジメだけに留まらず、それは教会のカルト化にも繋がっていきます。

 だから聖書の解釈は、教会やクリスチャンにとって文字通り生命線と言えましょう。大切なのは「聖書の言葉だからー」ではなく、それを「どう解釈しているか」の方にあります。解釈次第で意味が全然変わってしまうのですから。
「聖書のみだ」とか「聖書をそのまま信じる」とか言っている人たちは、そのへんを見逃してしまっていると思いますね。自分たちが信じて疑わない「聖書に基づいた言説」も、元は「ある1つの解釈」から始まっているのですから。

 さて、今回は、新訳聖書の「ピリピ人への手紙4章13節」がどのようにイジメに使われるか、紹介します。興味のある方は、初めに4章全体をサラッと読んでおくと良いかもしれません。

・「『できない』と言うな!」

 今回はこのセリフになります。
 ですがその前に、このセリフについて書くキッカケとなった映画の話からします。その映画というのはこれ。


 現在上映中(2017年6月)の邦画『ちょっと今から仕事やめてくる』です。主演は若手イケメン俳優の福士蒼汰と工藤阿須賀。私はあんまり邦画は観ない方ですが、本作は以前から気になっていて、さっそく観に行きました。原作未読なのですけれど。

・軽くあらすじ紹介

 就活に苦戦した挙句、ブラックな広告会社に就職してしまった隆(工藤阿須賀)は、ひたすら上司のパワハラに堪える日々を送っています。しかしとうとうウツ状態になってしまい、駅のホームで、衝動的に自殺を試みてしまいます。それを寸前のところで止めたのが、ヤマモト(福士蒼汰)と名乗る男でした。ヤマモトは隆の小学生時代の同級生だと言いますが、隆の方にはイマイチ記憶がありません。それでもいろいろ親身になってくれるヤマモトに、隆は徐々に心を開いていくのでした。
 しかしヤマモトは、隆の同級生でなかったばかりか、3年前に自殺しているらしいのです。果たしてこのヤマモトは、隆を救いにきた幽霊の類なのか、あるいは神の使いなのか、それとも他の何かなのか?

 というのが簡単なあらすじです。
 感想ですが、隆の会社のブラックさがもう本当にブラックで、観ていて辛かったです。気軽に観られるファンタジーだと思っていたので余計に。

 何が辛かったかと言うと、そのブラックさがあまりにリアルだったことです。吉田鋼太郎扮するブラック上司の言動や行動がいかにもって感じで、すっかり同氏のことが嫌いになってしまいました(笑)。あ、もちろん演技だってことはわかっていますが。
 でもこのパワハラの数々、笑い事じゃなく、本当にあるなあと思います。自殺してしまった電通の社員の方のことを、否応なく思い出していました。

・洗脳の場

 よく考えてみると、ブラック企業というのはほとんど洗脳の場みたいなものです。社員を理不尽に酷使し、疲弊させ、思考停止状態にし、「これくらい出来なくてどうする」と精神的に追い込んでいくのです。あるいは「これでお前は成長できるんだ」と儚い夢を見させるのです。その先に明るい未来なんてないのですが。

 なんでそんな職場で働き続けるんだ? と周囲は不思議に思うのですが、当の本人は既に判断力を失っていることが多いです。もはや考えられなくなっていて、日々苦しみに堪えるだけの、いわばロボットみたいになっているのです。だから周囲の人たちが何とかして気づかせてあげないと、もうどうにもなりません。

 そしてそのへんの構造は、いわゆる「ブラック教会」と同じです。信徒たちに「これが神の御心だ」とか「成長のためだ」とか「御国拡大のためだ」とか言って焚き付け、過重な奉仕とか無茶な献金とかを強いるのです。忙しくさせ、疲弊させ、徐々に判断力を奪っていくのです。信徒の方は、真剣であれば真剣であるほど、黙ってそれに従わざるを得ません。そうこうしているうちに洗脳が進行し、自分で何も判断できなくなってしまいます(自分では判断しているつもりなんですけれど)。

・「できない」と言わせない理屈

 上記の映画に登場するブラック企業には「社訓」があって、これがまたトンデモな内容です。「上司の声は神の声」とか、「心なんか捨てろ」とか、「有給なんか要らない」とかです。入社前にこれを見せられたら誰も入職しないと思うので、たぶん入社後に見せるのでしょう。ほとんど詐欺ですが。

 ところでそんなブラックな会社の壁に、こんな張り紙があるのに私は気づきました。

「できない」なんて言うな。本当にできないのか、よく考えろ。

 映ったのが一瞬だったので細かい文言は定かでありませんが、こんな感じだったと思います。
 見た瞬間、某ブラック教会のことを思い出しました。そこの牧師が似たようなことを言っていたからです。
 信徒が何らかの奉仕について「できません」とか「無理だと思います」とか言うと、よくこう言っていました。

 やってもないのに「できない」と言うな。それは不信仰だ。

 そして、ピリピ4章13節を引用するのです。「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と。

「どんなことでもできる」と書いてあるのを突きつけられたら、そりゃ簡単に「できません」とは言えなくなります。牧師と信徒の関係であれば、尚更。そして「これも神様のため」とか「皆のため」とか思って、結局信徒は頑張るしかありません。つまり「できない」と思っても、「できません」とは言えないのです。

・ある事例

 実際に見たケースですが、あるときその教会でイベントがあって、事前にポスターが作られました。印刷業者にポスター印刷を発注したのは信徒のAさんでした。納品に1週間かかると言われ、翌日Aさんはそれを牧師に伝えました。すると牧師は、

「1週間? もっと早く貼り出さないとポスターの意味がないだろう。もしかしたらこの2、3日のうちに教会の前を通り過ぎる人が、ポスターを見てイベントに来て救われるかもしれないじゃないか。そしたら1週間後のポスターを貼ったってその人は救われないんだよ だから業者にもっと早く納品するよう頼んでこい。頼んでみなきゃわからんだろう」

 みたいなことを言いました。
 実は納期1週間というのは、既にAさんが頼み込んで、早くしてもらった結果でした。だからもっと早くしてくれとはなかなか言えません。くわえてその日は祝日でした。閉店している業者にどうやって頼んだらいいのでしょう。

 でもAさんは普段から「できないと言うな」と言われていましたし、他の人がそう言われるのも聞いていましたから、やはり「無理です」とは言えませんでした。で、Aさんは泣く泣く業者のところに行くのでした。その結果はあえて書きませんけれど。

・聖書は本来何と言っているのか

 何でもかんでも「できない」と言うのはたしかに問題ですけれど、逆に何でもかんでも「できる」と言うのもまた問題です。何でもかんでも「できる」わけないからです。私たちは全能ではないのですから。

 またピリピ4章を読んでみればわかりますが、パウロの言う「どんなことでもできるのです」は、その前の「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました 」(11節)に関連付けられています。
 つまり「お金がある状態にもない状態にも対処することができます」と言っているのです。能力的に「不可能なことはない」と言っているのではありません。

だからこの文脈を引用して「できないなんて言うな」と言うことはできません。

そういうことを言う牧師は、聖書をちゃんと読んでいないのか、あるいはわかっているけれど信徒を都合よく利用したいのか、だと思います。いずれにせよイジメであり、パワハラです。キリスト教信仰とは違います。
牧師から言われるイロイロな理不尽を「訓練」だと思って頑張っている方々には、ぜひそういうことに気づいていただきたいと思います。
またシリーズで書いてきていることの1つ1つが、何かの「気づき」を提供できればと願ってやみません。

・最後に

『ちょっと今から仕事やめてくる』はブラック企業の実情を深くえぐりながら、働くことの意味を考えさせ、かつ「そんなブラックな職場で頑張らなくていいんだ」という明快なメッセージを伝える良作です。派手なアクションはありませんが、ぜひ劇場のスクリーンで、働くことの意味を考えながら観ていただけたらと思います。

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