2016年9月25日日曜日

虐待被害者の擁護について

 前回は映画『スポットライト』から「教会の闇」について書いた。司牧による性的虐待と、それを隠蔽する教会組織についてだ。

 この問題で解決しなければならないのは、教会の隠蔽体質をどうやって改めるか、司牧をいかに監督するか、という点だと思う。予防策を講じて、再発を防止しなければならない。
 そして同時に考えなければならないのは、既に被害に遭ってしまった人たちをいかに守り、フォローしていくべきか、という点だと思う。これはすごくセンシティブな問題だ。

■虐待被害者に積み重なる理不尽

 虐待被害者の多くは、年端のいかない児童か、あるいは成人女性である。
 彼らは被害に遭った時から今に至るまで、ずっと苦しんでいる。虐待そのものが大変な苦痛だったのはもちろん、その後に続く諸々にも、あるいは生きること自体にも、長い期間苦しめられている。

 統計的にはわからないけれど、判明している被害はごく一部だと考えられる。つまり被害者は多くの場合、被害を訴えていない。理由は相談する相手がいない、被害を思い出したくない、警察や関係機関に通報して根掘り葉掘り聞かれるのが耐えられない、などだと思う。できれば早く忘れてしまいたいのに、いつどこで誰に何をされたのか、その詳細を知らない人たちに話さなければならないなんて、ほとんど考えられないかもしれない。

 その負担はすごく大きいと想像できる。しかもそれだけでなく、もし事が公になれば、たとえ個人名が出なくても、いろんな憶測や噂話やネットの力で、自分自身だと特定されてしまうかもしれない。まして教会内のことであれば、バレるのは時間の問題だろう。

 だから不当な被害に遭い、それを訴えただけなのに、なぜか大きな負担を背負わなければならなくなる。虐待被害者に積み重なる理不尽である。

■セカンド・レイプ

 そのようにセンシティブな話であるにもかかわらず、被害者には心無い言葉が投げかけられることがある。たとえば次のような言葉。

・なぜ本気で抵抗しなかった?
・なぜ逃げたり、大声を出したり、助けを求めたりしなかった?
・なぜそのような場所に(そのような時間に)行った?
・なぜはじめに怪しいと思わなかった?

 など。
 これと同じようなことが、レイプ被害に遭った女性(男性)に投げかけられることもある。まるで被害者に非があるかのように。まるで被害者の自業自得であるかのように。しかしそういうのセカンド・レイプという。

 なんで抵抗しなかったのかと言われても、力の強い男性にねじ伏せられ、抵抗すればするほど暴力をふるわれ、命の危険さえ感じるのだ。痛みと恐怖でパニックになり、抵抗できなくなって当然である。声だって出せない。仮に逃げ道があれば逃げられるかもしれないけれど、多くの場合はそうではない。そしてその全ては、被害者の落ち度ではない。

 それが想像できないのなら、自分自身が拉致監禁されて、拷問されることを想像してみたらいい。縛られて動けず、何の抵抗もできない状態で、何かの秘密を白状しろと言われる。さっさと白状しないと、殴られたり蹴られたり、爪を剥がされたり、肛門に鉄の棒を入れられたりするとしたら、たぶんビビって簡単に白状してしまうだろう。
 しかし、無事に解放された後、周囲からこう責められる。なんで白状したんだ、なぜ抵抗しなかったんだ、なんで捕まったんだ、と。
 さてどう感じるだろうか。

 またこれが教会内部のことで、被害者が児童で加害者が司牧であるなら、暴力の有無にかかわらず、そもそも抵抗などできない。児童だからまだ十分な判断力が備わっていないうえ、司牧を過剰に神聖視する傾向があり、逆らってはいけないと思うからだ。

■虐待被害者のためにできることと、してはいけないこと

 このように多重に苦しむ虐待被害者に、私たちはどのように接するべきだろうか。
 もちろんカウンセリングなどの専門的な援助が欠かせないけれど、そうでない身近なレベルでは、やはり支持的な態度でいるべきだと思う。
 すなわち、あれこれ指示するのでなく、ただ相手の話を聞くこと。
 これはこうだよと勝手に答えを出すのでなく、相手と一緒に考えること。
 それは違うと否定するのでなく、ただ隣にいること。
 相手が話し出すのを待ち、時には沈黙すること。

 逆にクリスチャンとして絶対にしてほしくないのは、たとえばこんなことだ。

「癒されるために祈りましょう」
「それでも神様を信頼しましょう」
「これもいつか益に変えられます」

 こういうのは、言ってる方は善意なのだろうけれど、結果的に被害者を傷つけ、追い詰め、余計に苦しめることになる。
 祈ることの何が悪いの、神様を信頼して何が悪いの、とか言われそうだけど、人間そんなに強くできていない。それは神への信仰ウンヌンの話ではない。人間とはそういうものだと理解しているか否かの話である。

 たとえば、苦しむ人間の行動については、旧約聖書のヨブ記が参考になると思う。ヨブは敬虔な人物だったけれど、死ぬほどの苦しみを味わった時、自分の生まれた日を呪った。つまり、生まれてきたことを後悔した。全ての生命が神から発していることを考えると、それは神を呪う行為と言える。
 ヨブのような敬虔な人物でさえ、苦しみをに際して神を呪う。であるなら、私たちが苦しみの時に敬虔に振る舞えなくなっても不思議はない。それが人間なのだから。でもこの場合の「神を呪う」とは、不信仰を意味しない。神への反逆でもない。むしろ神への悲痛な叫びであり、正直な気持ちの表出であろう。

 虐待被害者に接するのに一番必要なのは、聖書知識でもなく、信仰歴でもなく、どれだけ「霊的」かでもない。一番は人間に対する理解だろう。そしてただひたすら、その人の味方でいることだと思う。

 嫌な話だけれど、いつかあなた自身や、あなたの家族や友人や知人が虐待被害に遭うかもしれない。もちろん私自身や私の身近な人たちも。そうならないことを切に願うし、そのためにこそ神に祈りたい。そして同時に、予防のためにできる具体的なことは何でもしてほしいと思う。

 聖書は私たちに救いや希望や祝福を提示しているけれど、同時に私たちに賢さを求めていると思う。油を余分に準備しておいた娘たちの話や、不正な管理人の話、主人から10ミナ預かったしもべたちの話などみてもそうだ。私たちそれぞれが、できうる最大限の知恵を働かせて生きることを、神は願っていると思う。

2016年9月21日水曜日

教会の闇に『スポットライト』が当たる

■教会の隠蔽工作を暴いた映画『スポットライト』

 2015年のアメリカ映画、『スポットライト』は、クリスチャンが観るべき映画の1つだと思う。「教会」のあり方について、きっと考えさせられる。

 アメリカ、ボストンの新聞社「ボストン・グローブ」が2001年、地元のカトリック教会の司祭たちによる児童への性的虐待の、恐るべき実態を暴いた。最初の記事で90人近い司祭たちが告発され、続報で3桁に上る司祭たちが告発されるに至った。また記事は単に司祭たちの虐待を明るみにしただけでなく、教会による組織ぐるみの隠蔽工作をも明らかにした。泣き寝入りしていたおびただしい数の被害者たちが、それをキッカケに次々と声を上げはじめた。そしてこれがボストンのみならず、またアメリカのみならず、世界各地でずっと起きてきた事態であることを、明るみにした。

 映画はこの新聞社の記者たちの地道な調査活動を追っている。当然ながら教会の反発にあい、警察や裁判所の塩対応に悩まされ、被害者たちの話を聞くにも(センシティブな問題ゆえ)難航する。それがそもそも「暴きづらい闇」であることを、全編を通じて私たちも体感させられる。

■教会による隠蔽方法

 それほどの数の虐待事件が起きているのに、なぜそれまで問題視されなかったのか。
 被害者が声を上げなかったのではない。もちろんショックが大きすぎて、声を出せなかった被害者も大勢いると思う。しかし被害を訴え出ても、結局事件として立件されてこなかった。教会があの手この手で、示談に持ち込んできたからだ。
 それはもう暗黙の了解みたいになっていて、司祭による虐待が発覚すると、司教がやってきて、被害者らの説得に当たる。被害者は子供だし、親は敬虔な信者なので、皆うまく丸め込まれてしまう。警察訴え出ても「どうせ示談になるから」とまともに対応してもらえない(警察が慣れるくらい、そういうケースが多いということ)

 冒頭、司祭に子供をレイプされたという親が警察署にくるのだけれど、結局その司祭は逮捕されず、司教に連れられて帰っていく。取材にきた地方の新聞記者はなぜか地方検事に追い払われる。それを見ていた若い警官が「裁判にならないんですか」みたいなことを言うんだけど、べつの警官が一言。「ならないさ」

 何故そうなってしまうのかは、被害者の立場に立って想像してみれば、見えてくるかもしれない。被害者は児童だから、多くの場合その親が、教会から多分こんなふうに言われる。

・あの司祭は教会で厳重に処分し、別の教区に異動させる。もうこのようなことは二度と起こさせない。
・問題はあの司祭個人だから、騒ぎ立てて教会全体の活動に悪影響を与えてほしくない。教会はこの地域を支えているんだ。

・また被害を受けた子のためにも、傷をほじくり返すようなことはすべきでない。これを公にしたら子供がもっと傷つくだろう。

・だからここは教会と示談し、穏便に済ませてほしい。

 おそらくこれに近い話になると思う。
 こうして教会という「組織」のために、「個」が犠牲になっていく。「個」のために「組織」があるはずなのに、また「個」が集まって「組織」となっているのに、その「個」が「組織」によって虐げられ、無視され、片隅に追いやられていく。

■プロテスタントでも同様のことが起こる

 しかしこれはカトリックだけの話でなく、プロテスタントにも当てはまる。というか上記のような理屈だけ見れば、両者に違いはない。まったく同じ理屈で同じような虐待が起こる。

 日本のプロテスタントで言えば、2005年の聖神中央教会で起きた暴行事件が有名だ。主管牧師だった永田保が「信仰の従順をためす」などの口実で、牧師室で複数の信徒女児(成人女性もいた)に性的暴行をくわえたという事件。2006年に有罪が確定し、永田には実刑判決が出た。

 これも上記のカトリックの虐待事件とまったく同じ構造を持っている。
 被害者にとって加害者(司牧)は神のような存在であり、その言葉は常に正しく、神聖なものに思える。とても逆らうことができない。また被害に遭った後も「口外すると悪いことが起こる」と事実上の脅迫を受けるし、羞恥心も働くから、誰にも相談できない。被害者は孤立状態となり、更なる被害に遭い続けることになる。

 こういう被害が起こりやすい環境として、被害者と司牧が長時間2人きりになる状況がある。泊りがけの教会活動や、「特別な訓練」と称して外部から遮断された環境、司牧との個人的な親密さ、あるいは「ミッション」のために司牧と2人で出掛ける羽目になる状況など。通常の礼拝(あるいはミサ)に参加し、短時間の教会活動に皆で参加するだけとは、状況が全然ちがう。
 また被害者が子供である場合は、親が把握できない「司牧と子供の関係」もあるだろう。親御さんたちは教会や司牧をあまり過信せず、十分に注意してほしいと思う。結局のところ司牧も1人の人間に過ぎないのだから。

■司牧に本当に必要な資質

 教会や司牧を疑ってかかれ、というのも嫌な話だけれど、少なくとも信じすぎてはいけないと私は思う。尊敬し経緯を払うのは当然の礼儀だけれど、礼儀以上のことをする必要はない。また礼儀を重んじなければならないのは司牧に対してだけではない。司牧だからといって特別に扱うべきではない。むしろ相手が司牧である以上、常人より厳しい吟味の目を向けるべきだろう。

  たとえば医者にかかるとき、あまりにもおかしな説明だったり変な処置だったりしたら、不安になって診療を拒否するだろう。またマッサージ師が全裸になれとか言ってきたら拒否するはずだし、必要なら警察に行くことになるだろう。それと同じような意味合いで、司牧には司牧にふさわしい振る舞いがある。それに外れるようであれば、はっきりと指摘するべきだ。それは失礼でも何でもない。

 一例を挙げれば、良識ある司牧なら、異性の信徒と2人きりになるような状況はうまく(意識的に)避けるだろう。動機やニーズがどうであれ、結果的に誤解を与えるような行動は慎むことができる。そういうことを当然の配慮としてできるかどうかは、司牧の資質としてけっこう必要だと私は思う。聖書知識や説教のうまさ、場を盛り上げるスキルなんかよりも、ずっと。

■「主の導き」とは

 というわけで映画『スポットライト』は、教会の闇を暴きだした「正義」の新聞記者たちの地味な、しかしこのうえなく真摯な姿を描いた良作である。教会に熱心なクリスチャンの方々にはぜひ観てほしい。

 また普段から「主よ導いて下さい」と何かの一つ覚えのように呟く人たちには、この映画が「主の導き」とは何かを学ぶ良い機会になるだろう。すなわち「主の導き」とは、名もなき新聞記者たち、とくに信仰熱心でもなく毎週教会にも通ってない人たちを通して、教会の不正を正すようなことを言うのだと。

2016年9月16日金曜日

マザーテレサの列聖をめぐるアレコレ

■マザーテレサの列聖

 微妙に旬を過ぎた話題だけど、去る9月4日、マザーテレサがカトリック教会により「列聖」された。

「神の愛の宣教者会」の創立者である彼女は、カルカッタでの貧しい人々のための救済活動で有名である。1979年にノーベル平和賞を受賞し、1997年に87歳で亡くなった。6年後の2003年、カトリック教会から「福者」に認定された。そして2016年、今度は「聖人」認定され、「列聖」されるに至った。

 彼女の「列聖」には一部で批判の声が上がった。どんな批判かと言うと、私がみたところ大別して2種類あった。

批判①
「彼女は皆がイメージするような善人でなく、心に深い闇を抱えていた。彼女のイメージは、教会が意図的に作り出したものに過ぎない。カトリック教会の自作自演だ」

批判②
「立派なことをした人かもしれないけれど、私たちと同じ人間を『聖人』と認めるなんておかしい。偶像崇拝や個人崇拝に繋がって危険だ。信仰の対象は神のみのはず」

 ①は一般の人々、とくに宗教を奉じていない人々にもみられる意見であろう。一方②は、おもにプロテスタントのクリスチャンが持ちやすい意見だと思う。
 さて、これらの批判は妥当なのだろうか。

■カトリックにおける「聖人」

 この場合、カトリック教会が行う「列聖」の意味をちゃんと知っておかないといけない。知らないでいろいろ言うのは、批判でなく単なる中傷になってしまう。

 とくに②の批判には、多分に誤解が入っていると思う。
 これに関しては私もツィートしたけれど、カトリックの「聖人」とは、神のごとく神聖視される存在ではない。完璧とか完全とかを意味するものでもない。また信仰の対象でもない。祈りと信仰の対象となる「守護聖人」みたいな考え方は、今でも一部の地域で習慣的に続いているかもしれないけれど、少なくとも現在はカトリックの教義ではない。
「列聖」とは、存命中に大きな功績を残した信仰の先輩である故人に、尊敬すべき存在として「聖人」という称号をつけ、信者のみんなでこれからも敬っていこう、という「取り決め」みたいなものだ。
 だから「聖人」ということでマザーテレサが神の位かそれに近いところに昇格させられたとか、弱い者のために戦うクリスチャンの「守り神」にされたとか、そういうことではない。単に、「こういう信仰の先輩がいたんですよ」と代々語り伝えていくための、(教会内の)手続きに過ぎない。と私は理解している。

 もっとも、「聖人」という言葉に過剰に反応して、いろいろ邪推してしまう傾向はあるのかもしれない。確かにカトリックの専門用語は、ちょっと仰々しいところがある気がする。たとえばプロテスタントで言う聖餐式は「聖体拝領」と言うし、洗礼とかの諸々の儀式は「秘蹟」と言う。べつに難しいことを言っているのではないけれど、なんとなく難しく聞こえる。知らない人には誤解を与えるかもしれない。とは思う。

 しかし用語の難解さはさておき、そういう事情を知らないで②のように言うのは、見当違いと言わざるを得ない。知らない土俵に乗っかって、ルールも知らないのに勝負を仕掛けるようなものではないだろうか。つまりカトリックにはカトリックの文化や習慣や考え方がある、ということ。プロテスタントにもあるように。そのへんを配慮しても、罰は当たらないと思う。

■列聖と関係ある?

①の批判については、真偽のほどは知らない。決定的な証拠を見たこともない。けれどその批判が真実であれ虚構であれ、今回の「列聖」とは直接関係ないように思う。何故なら前述のように、「列聖」とはカトリック教会内の手続きに過ぎないからだ(もっともカトリック信者は世界中に何億といるから「一組織内の話」といっても世界規模の話になってしまうのだけれど)。
 つまりマザーテレサが「聖人」であるのは、カトリック内でだけだ。べつに世界人類に対して「聖人」として認めろと言っているのではない。押し付けているのでもない。カトリック教会の偉い人たちが組織内のいろいろな事情を鑑みつつ決定したことであって、べつに神の「語りかけ」とか「導き」とかでもないはずだ。

 だからそもそもの話、マザーテレサ列聖について、カトリック信者があれこれ言うならわかるけれど、そうでない外野がとやかく言うのはお門違いではないかと思う。べつにカトリック教会を庇うつもりはないんだけど、それはたとえて言えば、よその会社の人事にあれこれ口を出すようなもんじゃないだろうか。

 もし仮にマザーテレサが存命で、現在進行形で貧しい人々を虐げ、病人に薬を与えず、適切な看護をしないで私財を貯め込んでいるとして、それが明るみになったとしたら、当然ながら批判は避けられない。聖人認定もないだろう。けれど、彼女はすでに故人だし、彼女自身が列聖を望んだわけでもない。望んだのはカトリック教会だ。だからこの際になって(列聖が決まったからといって)彼女のことをあれこれ言っても、何の意味もないのではないかと私は思う。

 それでも彼女の「心の闇」について調べたり論じたりしたいなら、列聖と関係なくできるはずだ。列聖前に盛り上がるだけでなく、列聖が終わった今でも続けることができるはずだ。列聖が終わってその話題から関心が失せるとしたら、その動機はそもそも何だったのか。と疑問に思う。

■イメージと実像
 あるいは第3の批判として、こういうのがあるかもしれない。

批判③
「それはイメージの問題なのです。彼女が列聖されたら、偉大な修道女として、善人として、歴史に名を残すことになってしまいます。本当の彼女は、全然そんな人ではなかったのに」

 それは可能性の話としてならあり得る。マザーテレサが実は極悪人で、教会が長きに渡って彼女を庇い、「善人のイメージ」を維持させていただけなのかもしれない。その可能性はまったくゼロではないかもしれない。しかしそういう可能性を言い出したら、何とでも言えるので、キリがない。そして確かな証拠があるなら、そういうイメージや可能性の話にはならないし、そもそも列聖されなかっただろう。ノーベル平和賞もなかったはずだ。

 ただ「イメージと実像」という部分で書かせてもらうなら、マザーテレサだけでなく、誰しも光に照らされた部分と、陰に隠れた部分とがあるのではないだろうか。まったくない人もいるかもしれないけれど、そういう人は多くはないだろう。特に聖職者で、大きな活動をする人なんかは、遅かれ早かれそういうギャップを抱えることになるかもしれない。そして活動の中で作られていく「イメージ」と、実際の自分自身とが、掛け離れていくこともあるかもしれない。

 プロテスタントで「不良牧師」を自称する人がいて、ハーレーを乗り回してあちこちに出没しているけれど、私はあるキリスト教書店で、たまたま本人に遭遇したことがある。彼は講壇では胸を張って「ジーザス最高!」とか言ってるけれど、書店では担当者にひいこらして「僕の本、宣伝して下さいねっ」とまるで怪しげな営業マンみたいだった。まあそういう例を挙げたらキリがないんだけど。

2016年9月11日日曜日

LGBTは選択でなく、何かの結果でもない

■ある呟き

 こんな呟きを見つけて、数日考えていた。
 よく読んでみてほしい。



 まず個人的には、同性愛でなくLGBTと表現すべきだと思う。性の多様性を表すのに、もはや「同性愛」では不十分だと思うからだ。現在、いろいろな性の在り方が認められつつある。いわゆる「同性愛」はその中の1つであって、全部ではない。
 その意味ではLGBTという表現でも不十分になるかもしれないけれど、性の多様性を広く意味する言葉として、ここでは使いたい。

 次に上記の呟きだけれど、まとめるとこうなると思う。
「同性愛はありのまま受け入れるべきでなく、悔い改めるように語らなければならない」
「同性愛者も人として愛すべきだけれど、悔い改めを求めなければならない」

 つまり、「同性愛=罪」というわけだ。
 皆さんはどう思われるだろうか。

■他人事でない痛み

 ここで少し私個人の話をするけれど、実はある障害がある。障害者手帳をもらうほどではないけれど、ボーダーラインに位置している。今後悪化することも改善することも多分ない、固定化したもの。知的機能や身体機能の障害でなく、日常生活にほとんど支障はない。けれど若い頃はかなり悩んだ。ほとんど健常なのだけれど、障害は障害として存在していて、どうにも誤魔化せなかったからだ。

 子供の頃はこの障害のせいで少なからずバカにされ、からかわれた。それがどれだけ苦痛だったかは、同じような体験をしなければわからないだろう。でもここで自分の可哀そう自慢をする気はない。私が言いたいのは、障害ゆえに持てた視点がある、ということだ。苦しまなければ持てなかった視点、と言うこともできると思う。
 そしてその意味で、LGBTの方々の苦悩(その大きさは私の比ではないだろうが)を私は他人事とは思えない(LGBTは障害ではないので誤解しないように)。またLGBTだけでなく、様々な理由で虐げられている人々の苦痛が、私にとって他人事ではない。

 だから「同性愛=罪」とハッキリ断罪してしまう人の心理が、私にはまったく理解できない。

■無理なものは無理

 たとえばだけど、あなたには嫌いな食べ物があるだろうか。あるとして、それがピーマンでもアボガドでもパクチーでも何でもいいけれど、嫌いな理由はなんだろうか。味がまずいから、見た目が嫌だからか、匂いが嫌だからか。
 そして次の質問。それを「好きになれ」と言われて、好きになれるだろうか。好きになれないなら、その理由はなんだろうか。おそらく多くの人がこう答えるだろう。
「とにかく嫌いなものは嫌い。好きになんかなれない。理由なんかない」

 つまりそれは、生まれついてのものだ。理由はわからないけれど、生理的に受け付けないのだ。食べ物の好き嫌いは「程度」があり、無理やり食べれば食べれるという場合もあるけれど、中には、食べると意に反して吐いてしまうとか、拒絶反応が身体に出るとかいうケースもある。 つまり、「ダメなものはダメ」「できないものはできない」「無理はものは無理」なのだ。

  これは食べ物だけの話ではない。たとえば高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症、赤面症、緊張すると手に汗をかくなど、何にでもあてはまる。自分でもどうしてそうなるのかわからないのだけれど、とにかく、そうなってしまう、避けることができない、コントロールできない、という状態。

 そういう経験のない人にはわからない話かもしれない。ではこういう想像をしてみたらどうだろう。事故で両目を失った人が、「自分の目でしっかり見ろ」と言われる。でも見れないものは見れない。できないものはできない。無理なものは無理。
 そういう感覚、わかるだろうか。

■LGBTは選択でなく、何かの結果でもない

 ではLGBTの話に戻る。彼らのうち、たとえばレズビアンやゲイは、本当は異性を愛せるのに、わざわざ同性を愛そうとしているのだろうか。異性を愛するのが「自然なありよう」だと仮定して、その「自然なありよう」を、自ら「好き好んで」放棄しているのだろうか。

 もし放棄するのが可能だとしたら、異性愛か同性愛かは「自分で選択できる」という話になる。としたら、異性愛者であるあなたも、同性愛者になれるということだ。あなたが同性愛を嫌悪する人間だとして、そういうあなたも今日から同性愛者になることができる。それが「選択」の話であるのなら。

 あるいはLGBTを罪だと言い張る人たちは、こう主張するかもしれない。
「彼らは過去に心に大きな傷を受けたのです。そして同性を愛するなどの悪い状況に陥ってしまったのです」
  しかしもし「心の傷」でそういう状態になるとしたら、あなた自身も、あなたの両親やあなたの子も、あなたの友人も尊敬する人も、みないつか「心の傷」とやらでLGBTになるかもしれない。異性を愛していたあなたが、何らかの「心の傷」で突然、同性愛者に変身するかもしれない。そういうことが考えられるだろうか。また、そういう実例はあるのだろうか。あるとして、それはどこの誰なのだろうか。連絡をとって確認するから教えてほしい。

 また仮に「心の傷」でLGBTに「なってしまった」のなら、それはその人の落ち度ではない。落ち度がないのに、なんで悔い改めなければならないのだろうか?

■聖書は何と言っているか

 LGBTは生まれついてのものだと私は理解している。人生の途中で変化するのではない。あえて言えば、人生の途中で(自分で)「気付く」ものだ。そしてそれは食べ物の好き嫌いや、いろいろな恐怖症、障害などと同じで、「自分の選択ではない」「自分のコントロールでもない」「変更することもできない」という種類のものなのだ。

 そういう、自分でどうにもできない、自分の落ち度でもない、変更できない種類のものを「罪だ」と断罪される気持ちを、想像できないだろうか。それがどんなに残酷で、人の気持ちを無視したものか、想像できないだろうか。

 熱心な(そして狭量な)クリスチャンであるあなたは、ここで聖書を持ち出すかもしれない。
「ほら、ここにこう書いてある。神はLGBTを罪と断じています。私ではありません」

 私は聖書を何度も通読しているし、どこに何が書いてあるかだいたい把握しているけれど、「LGBT=罪」と断言している箇所なんて知らない。そういう議論になっている箇所なら知っているけれど、それは「議論になっている」というだけで、何かを断言していない。またその「議論」というのも、LGBTに対する偏見や先入観から「結論ありき」で進められていて、公正な議論とは言えない。

 聖書について言及するなら、現代社会におけるいわゆる「LGBT問題」について聖書は何も言っていない、と私は思う。聖書が問題視しているのは神殿男娼とか邪教的男娼習慣についてだ。そして聖書は同じく、異性愛者における娼婦とか売春とかも問題視していて、そこに同性や異性の差はない。

■想像力の欠如

 最後に、「『人をありのまま受け入れる』のが聖書的だと誤解しているクリスチャンが多い」という意見について。

 これは、「ありのまま」の意味を単純化しすぎていると思う。「ありのまま」はいろいろな意味を含んでいるからだ。たとえば日本人が日本人として生活するのは「ありのまま」なことだし、子供が子供らしく過ごすのも「ありのまま」なことだ。その「ありのまま」を、悔い改める必要などない。

 たぶんこの人は、「罪をそのまま受け入れるべきでない」ということを言いたいのだと思うし、私もそれには同意する。けれどLGBTのような繊細な話題で、「ありのまま」という言葉を大雑把に使うのは誤解のもとだ。「ありのまま」で良いこともあるし、「ありのまま」で良くないこともある。ということだ。

 そして繰り返しになるけれど、LGBTであることはその人にとって「自然なありよう」であり、「ありのまま」で良いことなのだ。罪などではない。それが罪であるなら、いろいろな障害とか恐怖症とか、左利きだとか肌が黄色いとか、足が速いとか遅いとか、パクチーが好きだとか嫌いだとか、そういうことも罪になってしまう。それを「悔い改めろ」と言うのなら、まず異性愛であることを「悔い改めろ」と言わなければならない。

 すべては想像力の欠如に原因があるのではないかと、私は思う。自分とはちがう立場、ちがう境遇、ちがう環境にある人々に対する想像力の欠如。あるいは少数派、マイノリティに対する想像力の欠如。

2016年9月9日金曜日

祈りが「足りない」のか、他の何かが「足りない」のか・その2

 前回に続いて、「祈りが足りない」という表現について考えてみたい。

 祈りが「足りた」か、「足りない」か。それは主観の問題。
 同じような状況でも、人によって見方が変わる。神様から「これだけ祈れ」とノルマを与えられて、その達成度を表すものでもない。そもそも神様はノルマを課す方ではない。だから足りないのは「祈り」でなく、そのへんのことを「よく考えること」だと思う。
 と、いうのが前回のまとめ。

 今回はもうちょっと掘り下げてみようと思う。


■律法主義を「避けよう」と言いながら、そこに陥っているという風景

 前回も書いたけれど、「たくさん祈れば〇〇に到達できる」という考え方は、たとえば仏僧が修行して「悟り」の境地を求めるのに似ている。仏僧の場合、(よく知らないけど)滝に打たれるとか、長時間座禅を組んで瞑想(?)するとか、ひたすら読経するとか、いろいろ頑張らないといけないと聞く。私が問題にしているクリスチャン群も似たようなもので、長時間祈るとか、聖書をたくさん読んで暗唱するとか、何時間も賛美するとか、30日断食するとか、「霊の戦い」に出向くとか、そういう努力をいろいろしないと、何かを得られない。という話になっている。

 つまり、頑張って何かを得ようという考え方。

 そういうのは教会用語で「律法主義」と言う。聖書では、律法主義者たちがこれでもかってくらい批判のマトとなっている。だから指導者たちは口を揃えて「律法主義を避けなさい」と教える。しかしそのわりに、上記のように自分たちがそこにハマりこんでしまっている。という珍妙な事態になっている。

■「祈り」というより「投資」

 ここは「祈り」の原理原則に立ち戻ってみよう。
「祈り」とは、聖徒が神に「捧げる」ものであろう。そして「捧げる」とは、文字通り「捧げる」ことであろう。そこに「見返りを求める」という思惑はない。「祈る」ことで一定の「見返り」を求めるとしたら、それはギブアンドテイクの関係である。すると、神はいわゆる商売相手になってしまう。

「これだけ祈ったんだから、〇〇してくれるよね?」
「Aさんはこういう祈りをしたらこう答えられたんだって。じゃあ私がそれ以上に祈ったら、もっとすごい答えが返ってくるはずだよね?」
「これだけ祈って仕えて献金してるんだから、報いがあって当然だよね?」

 そういうのを何と言うか、知っているだろうか。「投資」と言う。投資家は誰かにお金を寄付するのでなく、有望そうな企業や個人に「投資」して、それが増えて返ってくることを期待している。「祈りの投資家」たちもそれと同じで、祈ることで神様からの特別なバックを期待している。言い方はしおらしくて、謙遜っぽいんだけど。
「もし導きなら・・・」
「もし御心なら・・・」
「もしできますなら・・・」
 そのくせ、何も起こらない、答えが返ってこない、何も与えられない、という気がすると(それもあくまで主観)、「主よ何故ですか」「なんという試練でしょう」「主は我を見捨てたもう・・・(なぜか文語体)」みたいなことを言いだす。

 そこにはそもそも、祈りを「捧げる」という概念がない。わかやすく言うと、「一方的に捧げるだけで、それでおしまい」という概念がない。祈ったからには何かあるよね? という投資的感覚から離れられない。つまり神様を「取引相手」と見ている。神様は無償の愛で一方的に私たちに救いを用意してくれたけれど、私たちは神に何かするたびに「見返り」を求めている。としたら、それは失礼なことではないだろうか。

■「祈り」にみられる「クリスチャンとしての成長」

 もう少しマイルドな言い方をすると、彼らは「お願い」系の祈りがメインになっている。ああして下さい、こうして下さい、というお願いばかり。もちろん祈りにはそういう側面もある。「主の祈り」も基本「お願い」だ。しかし「主の祈り」で言えば、あれは「私たち(我ら)」が主語になっていて、より広範なキリストの共同体、あるいは地域、あるいは国、あるいは世界の平和を祈念するという意味合いがある。個人的な「あれしてこれして」三昧とはちがう。

 とは言っても人間だれしも、何かを期待して祈るという動機はある。それが悪いのではない。お願いしたいことがあるなら、思う存分お願いしたらいい。けれどそれ「だけ」になってしまうと、自分中心な子供っぽい祈りに終始することになる。時には自分のことを離れて、他者のために祈ったり、神に栄光を帰すだめだけに祈ったりすることも、クリスチャンの成長の1つだと思う。そういう視点がなく、自分のことに終始して何時間も祈ったり賛美したりする態度が、私の言う「祈りの投資家」なのだ。

 ただし、たとえ他者のために祈っても、結果的に自分のためにしかなっていない、という事態もある。たとえば、

「昨日あなたのために集中して祈りました。すると〇〇と語られました。だから××することを勧めますね」

 みたいなことを言う人がいるけれど、結局それは、相手を自分に依存させようというのが動機になっている。つまり人々からの尊敬を集めるために、他者のために祈る、ということ。それは他者のためなんかでなく、自分のためでしかない。大人ぶった子供みたいな行動だ。

「クリスチャンの成長」を霊的なものと捉え、何時間祈れるか、上手に祈れるか、どれだけ小難しい祈りができるか、みたいな視点で評価する傾向が、一部の教会にあると思う。でもそんなのは成長とは言わないと思う。それは「成長」と言うより「上達」だろう。一般的にみても、人を騙すテクニックを身につけた子供を「成長したね」とは言わない。
 クリスチャンの成長とは、よくわからない「霊的」なものの以前に、自分のことを離れて純粋に他者のことを考えられるか、純粋に他者のために祈れるか、という人格的視点で評価すべきだと思う。

 だからその人の「祈り」をみることで、その人の「クリスチャンとしての成長」を、ある程度推し量ることができると思う。ただし繰り返すけれど、それは上手に祈れるとか、長時間祈れるとかいう視点ではない。