2017年2月20日月曜日

「この世の仕事」って何

◼️「この世の仕事」って何

「この世の仕事は◯◯だ」
 という話をたまに聞く。クリスチャン界隈で。たとえばこんな感じ。

「この世の仕事は消耗するだけだ」
「この世の仕事は霊的に良くない」
「この世の仕事を辞めて、はやく神の国の仕事がしたい」

 そして同系列の方々から、「そうですよね」「アーメン」「はやくそう導かれますように」みたいなコメントがくる。

 なんか、モゾモゾする。

 その手の界隈では、「仕事」には2種類あって、「この世の仕事」と、「神の国の仕事」とに分けられているようだ。そして前者は「ダメな仕事」で、後者は「良い仕事」らしい。
 具体的にはどういうことなのだろうか。

◼️「神の国の仕事」って何

「神の国の仕事」とは、大雑把に言えば、教会関係の仕事を指すらしい。たとえば牧師とか、教会役員とか、伝道師(何それ)とか、教会スタッフ(便利な言葉だなあ)とか、宣教団体のスタッフとか。
 しかし日曜だけの礼拝奉仕や会堂掃除などのいわゆる「奉仕」は、除外されるらしい。同じ教会関係の仕事なんだけどね。

 ともあれ、そういう教会関係の仕事は、「信仰的」であり、「霊的」であり、「自由」であるらしい。そして「楽しい」か「つまらない」かで分けるなら、「楽しい」になるんだと思う。
 まあ教会内の人間関係にもよるけれど、大概の「この世の仕事」の人間関係に比べれば、教会内の人間関係は、ストレスが少ないだろう。「神の愛」とか「許し」とか、そういうのが前提となっているのだから。そもそも会社とはぜんぜん違う。

 私も(パートタイムでなく)教会で働いたことがあるから、実情はよくわかる。一般的な会社に比べれば、教会は気を遣う相手も少ないし、面倒なアレコレも少ない。体調が悪くて休んでも有給は消費されない(そもそも有給なんてないか)。毎日いろいろ違うことをしたり、違う場所に行ったり、1日中誰かとしゃべったり、ひたすら物を探したり調べたりする(時もある)。そういうのは見方によっては「自由気まま」な業態だと言える。もちろん忙しい時とか大変な時とかもあるけれど、だいたいが「楽しい」と思えることで構成されている。だから精神的に消耗することが少ない。そのへんが、「この世の仕事」と大きく違うと思う。基本的に。

 そういう「楽しい」働き方からすると、「この世の仕事」は、明らかに消耗する諸々で構成されているように思える。満員電車とかタイムカードとか上司とか、気の合わない先輩とか同僚とか後輩とか、イヤな仕事とか苦手なクライアントとか、もう消耗のカタマリじゃないかと思えてくる。その中にずっといたら、「あー教会で働きたい」と思うクリスチャンの1人や2人は当然現れるであろう。

 そのへんの心理から、「神様のために献身したいです」「教会を開きたいです」みたいな話が出てくることもあると聞く。「自分は神に召されている。だからこれ以上この世で働くわけにはいかない」というわけだ。でも単に「この世の仕事」から逃げたいだけだろ、って気もするけれど(あ、言っちゃった)。

◼️何のための区別なの

 もちろん、単に「逃げたいから」という理由で「神の国の仕事」を選ぶ人ばかりではないと思う。純粋に「神様のために働きたい」と願っている人もいるだろう。

 でもその動機が何であれ、「この世の仕事」とか「神の国の仕事」とか区別している時点で、何だかなあと私は思う。

 なぜ働くことが、「神の側」と「そうでない側」とに分けられてしまうんだろう?
「神様のために働きたい」と願うなら、べつに牧師でなくてもいいし、フルタイムで教会の「何でも屋」をしなくてもいいんじゃないの。「この世の仕事」で神様のためにできることだって、沢山あるんじゃないの。

 たとえば、すごく極端な話だけれど、刑務所で刑期を過ごしている人たちに直接的に接触できるのは、教誨師を除けば、ほとんど刑務官だけであろう。だからクリスチャンが刑務官になれば、すごく貴重な機会を毎日持つことになると思う。会おうと思ってもなかなか会えない人たちに、毎日「仕事」として顔を合わせられるのだから。

 そうやって特定の人々に仕えるのは、神様の愛を実践することにならないの? それは「神の側」の仕事じゃないの?

 似たような例は他にも沢山ある。ほとんど仕事の数だけある。たとえば保育士は乳幼児に、介護士は高齢者に、ビジネスマンはビジネスマンに、政治家は政治家に、それぞれリーチできる。クリスチャンたちがいろいろな分野に出て行ったら、それはそれで「神の国の仕事」になるんじゃないの。てかそれこそが「神の国の仕事」なんじゃないの。なんで教会に関連したことでしか、「神の国の仕事」じゃないってなるの?

 と、私は疑問に思うわけだ。だから「この世の仕事は〜」とご高説を説く人をみると、「単に普通に働くのがイヤなだけダロウ」と、邪推したくなってしまう。

◼️そもそも仕事って何

 ところが上記のクリスチャン界隈では、もっと酷くなると、こんな話さえ出てくる。

「この世の仕事は、人の欲望に仕えることだ。だから消耗するんだ

 え、この世の仕事って、人の欲望に仕えること?

 いやいや、仕事って基本、誰かに仕えることでしょ。
 どんな種類の仕事であれ、その向こうには、直接的にか間接的にか、誰か相手がいるはずでしょ。
 たとえば、報酬をもらってどこかの掃除をしたとしたら、それは雇い主の依頼(欲望)に応えることであり、またその場所を使う不特定多数の人々に仕えることだよね。掃除に限らず、仕事ってそういうものだよね。どんなに孤独に、どんなに人と関わらないで働いたとしても、その先の先のどこかに、誰かとの接点があるはずでしょ。それは「この世の仕事」も「神の国の仕事」も同じなんじゃないの。

 それに「神様のために働く」ったって、結局は人間が相手だよね。目に見える誰かに仕えることだよね。なんでそこに区別が生まれるんだろう。

 てか、「人の欲望」ってザックリしすぎた表現だよね。じゃあアレですか、人々の「食欲」に仕える飲食店は、「神の側」に反する「仕事」なんですか。じゃあ五千人にパンを分け与えたキリストご自身も、「神の側」ではないんですか。

 神の側でないキリスト...?

◼️仕事の種類の優劣?

 ジョージアのCMじゃないけど、この世界は多くの人々の「仕事」で成り立っている。ある分野の仕事が遂行されないと、他の分野もうまく回らなくなり、結果的に機能しなくなることがある。消耗するから、とか言ってられない分野もある。

 たとえばだけど、「神の国の仕事」をしているご立派なクリスチャン、Aさん宅が火事になったとする。Aさんはどうするだろう。消防に連絡するだろう(まさか鎮火されるように祈るなんて言わないよね?)。すると消防が駆けつけてくれて、懸命に消火活動をしてくれるはずだ。彼ら消防士は「ボクたち消耗するから消火しません」なんて言わないだろう。そしてもしかしたら、その消火活動は命懸けになるかもしれない。

 それで火が無事に消し止められ、Aさん宅は小さな被害で済んだとする。そのときAさんは何と言うだろう。それでも「この世の仕事は〜」とか言うだろうか。そしたら私がもう一度火を付けてあげるけどね。

 仕事を「この世の側」と「神の側」とに区別するのは、個人の自由かもしれない。けれど、自分たちは「神の側」で優れてるんだとか、「この世の側」は消耗するだけだとか、そういうことは言うべきでない。もし自分が教会関係の仕事だけで生活できており、「ぜんぜん消耗しない」とか「毎日楽しい」とか言っていられるとしたら、それは見えない所で(消耗しながら)働いて、この社会を支えている多くの人たちの故である、ということを忘れてはならない。

 クリスチャンが未信者にくらべて優れているとか、立場が上だとか、そんなことは全然ない。教会関係の仕事が他の仕事にくらべて優れているなんてこともない。

「でも海外に宣教に行く働きは、何にもまして重要な仕事だ。人々の救いがかかっているのだから」と誰かが言うかもしれない。しかしその「人々の救い」が何より重要だと仮定しても、だからと言って「宣教チーム」が最も重要とはならない。なぜなら宣教チームが海外に行くには飛行機が必要だし、飛行機には航空会社やパイロットや空港や燃料やその他もろもろが必要だし、パイロットには食べ物やら洋服やら何やらが必要だし...というわけで、イロイロなものがイロイロな形で繋がっている、そのシステムの上に「宣教」も成り立っているのだから。

 というわけで「この世の仕事は〜」とか「神の国の仕事は〜」とか真剣に演説していらっしゃる人には、まずそういう社会の仕組みから学び直すことを私はオススメしたい。聖書の勉強よりも前に。

2017年2月14日火曜日

「正しさ」の押し売り vs 選択の自由

・波紋を呼んでいる「出家」のニュース

 若手女優の突然の引退が大きく報道されている。引退して宗教団体に「出家」するということが、さらに話題を大きくしている。メディアはここ数日、その話題で持ちきりである。

 詳しい事情は、本人や関係者にしかわからない。単純な話ではないと想像する。けれどここでイロイロ憶測しても意味がないからしない。
 ただ「出家する」ことに対して批判が上がっていて、「宗教なんてやめた方がいい」とか「騙されているだけだ」とかいう意見があるけれど、それはちょっとナンセンスではないかと私は思った。その時つぶやいたのがこちら。



・肯定すべきか否定すべきか

 ぶっちゃけ、私個人は当該の宗教団体はとっても怪しいと思っている。また本人の「出家」の意志がどのようなプロセスで行われたのか、それが正常な精神状態によるものだったのか、という点についてはちゃんと検証した方がいいように思っている。

 けれど真相がどうであれ、また不正なプロセスがあったかどうかに関わらず、本人が「こう」と決めて行動した、その選択と事実自体は肯定的に受け止めるべきだと思う。 でないと本人を余計に苦しめ、追い詰めてしまうかもしれないから。たとえ周囲の人間が全員その選択を「間違い」だと思っても、本人は「正しい」と思っているのだから。


 その意味で、「宗教なんてやめた方がいい」というのは本人にとって「トドメ」みたいなものであろう。おそらく沢山葛藤し、苦しみ、悩み、最終的に「こうしよう」と決めたことなのだろうから、それはそれで良しとしないと、少なくともその後の対話の可能性がなくなってしまう。信頼関係を築くチャンスも、失われてしまう。

 専門的に言うなら、「支持的に接する」ということ。

 しかしながら、「宗教なんてやめた方がいい」という意見そのものは、必ずしも間違いではないと思う。宗教に過剰にのめり込むことによって、かえってバランスを崩してしまうこともあるからだ(キリスト教もしかり)。その意味で、この意見には一考の余地がある。
 ただ、繰り返しになるけれど、本人の心情に配慮した意見とは言えない。

 要は、自分が考える「正しさ」とか、自分が信じる「正義」とかを相手に押し付けても、何にもならない、ということ。
 人はしばしば「感情」で動くからだ。必ずしも論理的でないことがある。自分の行動に矛盾があると気付いていても、どうにもならないことがある。そこを「正しさ」で責め立てても、相手を絶望させたり、あるいは無益な争いに走らせたりするだけではないだろうか。であるなら、その選択が「間違い」のように思えても、とりあえずの反応としては「肯定」が正解なんだと私は思う。

 ・周辺の事情を考慮しても

 この話を複雑にしている要因は他にもある。一つは、本人が「売れている女優」だということ。多くの人やお金が動く仕事を、途中で投げ出してしまった、という点で批判が上がっている。義理を通すべきだとか、踏むべき手順があるだろうとか、まあそれはそれで一理あると思うけれど、このへんの事情はわからないから何とも言えない。仮に彼女の精神状態がすごく不安定になっていたとか、所属事務所との溝がすごく深まってしまっていたとかいう状況だったら、「仕事を途中で投げ出すなんて」と一概には言えないと思うけれど。

 もう一つの点は、彼女が「二世信者」だったということ。両親が同じ宗教の信者だから、それが彼女の「出家」に少なくない影響を与えているだろう、と言われている。つまり「出家」が彼女本人の純粋な、自由意志による選択だったかどうか怪しい、という話。

 たしかに、どの宗教であれ、もちろんキリスト教であれ、「二世信者」はちょっと複雑な事情を抱えているように思う。
 簡単に言えば、生まれた時から教会に通っている(通わされている)子供が持つ「信仰」は、本人の自由意志によるものなのか、あるいは多少なりとも押し付けられたものなのか、という問題。これはこれで一つの記事になりそうなトピックなので、ちょっと一言では片づけられない。

 けれどやっぱり、そういった込み入った事情があるとしても、やはり一番大切なのは、「本人が何を選んだのか」という点に尽きると思う。彼女の選択に対して、
「あなたは二世信者だから」
「あなたは忙しい女優業で疲れているから」
「あなたはまともな精神状態ではなかったから」
「あなたは怪しい教祖にうまく騙されているだけだから」
 などいろいろ分析して解説しても、ほとんど逆効果だと思う。

「信教の自由」を殊更に強調する気はないけれど、「本人の意志による選択」を、私たちはお互いに尊重すべきであろう。
「彼女は操られているんだ」みたいな話もあるようだけれど、そのへんはよくわからない。いずれはそういう論理的な話が必要になる時がくるかもしれない。けれど今は、そういう小難しい話を持ち出すよりは、先に挙げたような支持的な態度で接するのが、一番本人の為になるのではないかな、と私は他人事ながら考えている。

2017年2月7日火曜日

プロ/素人の問題

・思いっきり私事だけど

 今月中旬まで、個人的にすごく忙しい。大事な試験があって、勉強しなければならないからだ。連日何時間も勉強している。全然自慢でも何でもないんだけど、学生時代から比べて今の方が相当勉強している。興味のある分野だからできる、というのもあると思う。

 という訳で今月はブログを書いている暇があまりないのだけれど、じゃあなんでこれを書いているのかと言うと、さすがに気分転換が必要だからだ。毎日暗記ばかりで、脳ミソが疲れてしまった。それに2013年3月に「キリスト教に対する問題提起をブログで書いていこう」と決めて、以来ずっとやってきたから、継続するのが義務だとも思っている。

 でも今はそんな難しいことも書けないので、ちょっと気になっていたことを乱文的にツラツラと書いてみる。ダラダラと付き合っていただけたら幸いである。

・プロの仕事に素人は口を出してはいけないのか

 最近SNSを眺めていてちょっと気になる話題があった。映画ネタ。洋画の日本版ポスターが、あまりにも内容から乖離しているケースがある、という話。
 たとえばこれ。




 映画『マシンガン・プリーチャー』は、元ヤク中のアメリカ人が内戦下のスーダンで子供たちの為に戦う、いわゆる感動モノである。本国版のポスターもそういう造形になっている。でも日本版ポスターはご覧の通り、マイケル・ベイ監督かよって感じの、しかもB級感あふれるドンパチモノになってしまっている。これはもう詐欺だろってレベルだと私は思う。

 でもこういう話は時々ある。配給会社の思惑だと思うけれど、「日本で売れそうなカタチ」に、作為的に「変換」されてしまうのだ。で、そういうもんだと思って観に行った人は「騙された」ってなるし、その作品本来の魅力を知っている人は「こんなポスターみたいな映画じゃないのに」ってなる。なんとも困った事態である。

 でも、そういう事態に対して批判的なコメントを出すと、こんな結果にもなってしまうようである。




 つまり、「プロ」の方々が、「素人は黙ってろ」と言ってくるのである。配給側には配給側の事情があるんだ、そういう事情も知らないで素人が好き勝手なことを言うな、みたいな感じ。
 でも、詐欺みたいな形で映画を配給しても、結果的に損するのは配給側なんじゃないの? と私は思うんだけどなあ。

・プロの責任

 たしかにプロ(その道の専門家)でなければわからない背景や事情があると思う。素人には単純に見えることが、実は複雑に絡み合った事情のうえに成り立っている、みたいなこともあるだろう。そこに素人が口を挟んでくると、プロからしたら「黙ってろ」みたいな気持ちになるのもわかる。

 でもプロにはプロの責任があると思う。
 たとえば私は看護師をしているけれど、患者さん(今は患者様と言わなければならないんだけど)に病状について説明するとき、「専門用語は使わない」というのが前提になっている。そして患者さんが話を理解できたか、どこが理解できてどこが理解できなかったか、見極めて補わなければならない。それがプロの責任である。
 これは医療業界だけでなく、映画業界でもどこの業界でも同じだと思う。「素人は黙ってろ」でなく、その素人に理解できるように複雑な事情をシンプルにまとめるのが、プロの責務ではないだろうか。

 それに上記の「映画の宣伝の仕方」の話に戻れば、内容をミスリードさせるような紹介の仕方は明らかに問題であろう。そのへんは素人に指摘される前に、「中の人」たちが声を上げていなければならないのではないか。素人に言われて「黙ってろ」なんて言ってる場合ではないと思う。

・素人だからできること

 話を昨年4月の熊本地震に変える。被災地支援とうい話で、私が(クリスチャンとして)一貫して言い続けたのはこれだ。
「祈りましょうと言うほど心が動いているなら、実際に何か行動すべき」

 これに対して多くの声をいただいて、批判的なものも多かった。でも批判する人はだいたい、最初の一歩で勘違いしている。前半の「祈りましょうと言うほど心が動いているなら」を見落としていて、「何か行動すべき」しか読んでいないのである。

 私は「クリスチャンなら何か行動しろ」なんて言ってない。行動したくてもできない事情があると思う。無理にでも行動しろだなんて思わない。各人の自由でいいと思う。ただ、人前で「祈りましょう」と声を上げるなら、当然ながら実際にも何か行動するはずだよね? と言いたいだけだ。だってそれだけ「心が動いている」はずなのだから。
 でもそういう人たちが実際に何をしたのか、全然見えてこない。私はそこを指摘しているだけなんだけど。

 また、「被災地に素人が行っても邪魔なだけだ」「素人にできることなんてない」と言う人もいる。
 私は当然ながら、「クリスチャンなら被災地に行って何かすべき」とも言っていない。
 でも「素人にできることなんてない」と言う人は、たぶん現地の状況を知らないんだと思う。知らないのによく言えるなあ。

 もちろん被災の激しい地域、危険な地域に行くのは良くない。でもそうでない地域にも沢山のニーズがあって、行政だけではとても賄えていなかった。実際のところ、公的な支援は地域によって相当格差があり、物資が届くところと、あまり届かないところとがあった。何日も放置された地域もあった。そこを多少なりとも補ったのが、民間のボランティアである(決して十分ではなかっと思うけれど)。そこでは素人の皆さんが重要な役割を担った。と言っても専門的な、難しいことをした訳ではない。近隣から食料品や日用品を集めて、現地に運んだだけだ(だけ、という簡単な話でもないけれど)。でもそれが被災された方々には、大きな助けになった。

 私はそれを実際に見たので、「素人にできることなんてない」という意見には、この一言を返すだけだ。「なに言ってんの?」
 素人にできることは沢山ある。

・まとめ

 映画の紹介の仕方と熊本地震を例に書いたけれど、プロ/素人の問題で一つはっきり言えるのはこれだ。
 プロにはプロの責任があり、素人には素人だからこそできることがある。ということ。

・オマケ(個人的な毒吐き)

 熊本地震の話を出すと、何故か騒ぎ立てる人がいて、くまもんの焼酎がどうとか不思議なコメントしてくるんだけど、正直まったく意味がわからない。記事の趣旨をちゃんと理解できるように、がんばって読解力を付けてから出直してきてほしい。いや、こなくていいけど(笑)

2017年2月1日水曜日

映画が意図的に語らなかったのか、あるいは語る必要がなかった真実。映画『沈黙―サイレンス―』より。

 映画『沈黙―サイレンス―』が公開されて2週間くらい経った。
 すでにレビューを投稿しているクリスチャンの方もけっこういて、あらためてクリスチャン界隈の本作に対する関心の高さがうかがわれる。いろいろな人がいろいろな視点で感想を書いていて興味深い。私も当ブログでネタバレレビューを書いているので、興味のある方は下記からどうぞ。

「貫き通すべき『信仰』とは何か。映画『沈黙―サイレンス―』より。」

 ところで数々のレビューの中で、気になるものが1つあった。下記がそれである。

「沈黙―サイレンス― 映画が語らない真実」(敷島のうさぎ)

「天国人」で有名な石井稀尚氏による文章である。私ははじめ、何度読み直してもこの記事の趣旨をうまく掴むことができなかった。結論として何を言いたいのか、よくわからなかったのだ。私の読解力が足りないのだろうか。
 と考えていたら、SNSでケン・フォーセットさんが教えてくれた。下記がそのツィート(2つ)。







 なるほど。なんかクリアになった。ケンさんありがとう(気安く呼ぶなって)。
 つまり石井稀尚氏が当該記事で言いたかったことは、まとめると次の2点に集約されると思う。

①西欧による日本宣教には、日本の植民化という思惑があった。だから禁教にされたのだけれど、映画はそのへんをごまかしている。
②「迫害されるキリシタンを見殺しにした神」が描かれているから、人々(特に未信者)をキリスト教から遠ざけてしまう映画だ。

 うーん。なんか違和感。
 何が違和感なのか書いてみる。

・第一の違和感

 べつに①を否定する気はない。
 けれど映画にはそれぞれテーマがあり、そのテーマに沿ってストーリーが構築されていくものだ。『沈黙』で言えば、「クリスチャンが苦しんでいるのになぜ神は沈黙を保つのか」というのがテーマになっている。つまり人間と神との関係、人間の問いに対する神の答え、という点が掘り下げられている。
 であるなら、「日本宣教には西欧による植民地化の思惑が隠されていた」としても、それ自体は蛇足になると思う。それが事実かどうかという話でなくて、映画のテーマに混乱をきたす、という話。『沈黙』がおかしな陰謀モノの映画になってしまう。だったら私は観なかっただろうし、レビューも書かなかっただろう。

『沈黙』が人々を惹きつける最重要のポイントは、「神の沈黙の意味」にあると思う。植民地化ウンヌンの話ではない。だからそれは氏が言うような「映画が語らない事実」なのではなく、「映画だから語る必要がなかった事実」なのだと思う。

・第二の違和感

 次に②について。
 この映画を観て、「キリシタンたちが苦しんでいるのに神は沈黙していたー」「神様ってヒドイー」「キリスト教なんて要らないー」という反応になる人が、どれくらいいるのだろう。私はならなかった。レビューを書いているクリスチャンの方々の中にも見受けられなかった。

 では、未信者の方々はそういう反応をするのだろうか。
 でもそもそもの話、この映画を未信者の人が観たら、きっと多くの場面で意味がわからないと思う。キリスト教のルールがわからないのだから、そもそも語る材料が少ないのである。「神が沈黙しているなんてヒドイ」という発想に、簡単にはならないと思う。

 それに、神は沈黙していた訳ではない。いや沈黙していたけれど、その沈黙の意味や理由を見出そうとするのが、この作品の取り組みなのである。だから、一見すると「神は沈黙している」と思われる場面もある。けれどフェレイラやロドリゴが最終的に到達したのは、「時には沈黙し、棄教し、辱めを受けることでしか己の信仰を保てないことがある」という痛ましい(そして逆説的な)事実であった。そのへんは、ある程度経験のあるクリスチャンでないと、十分に飲み込めないかもしれない。

 また「神の沈黙」という点で補足するなら、「神は苦しむキリシタンらを見て見ぬフリした」「神は知らん顔を決め込んだ」のでなく、「神も共に苦しんでいた」という発見こそが、この作品の肝なのである。
 そういう(作品としての)結論をちゃんと読み取るならば、 「神様ヒドイー」とか「キリスト教なんて要らないー」という考えには至らないと思う。至るとしたら、それは作品のメッセージを正しく受け取れなかったということであろう。いずれにせよ、この映画がキリスト教を貶めていることにはならない。
 というのが第二の違和感。

・その他

 石井稀尚氏の記事の最後の方に、こんな記述がある。

(以下引用)

(この作品は)神はバテレンには語ったが、日本人には「沈黙」した、という驚くべき残酷な矛盾と疑問を生じさせ、これこそが聖書的な歴史観であるかのような錯覚を与えるという点で、非常に問題である。

(引用終わり)

 つまり、「神はロドリゴ(西欧人)には語られたが、苦しめられたキリシタンたち(日本人)には語られなかった」→「西欧の方が優れている・強い・正しいという錯覚を与える」→「そこが非常に問題だ」ということ。
 でもちょっと待って。物語としての主人公はロドリゴなのだから、彼の視点で語られ、彼の見聞きしたものがクローズアップされるのは当然であろう。多くのキリシタンたちにも、彼らを迫害した役人たちにも、またロドリゴのような宣教師たちにも、それぞれにストーリーがあるけれど、(創作物として)主人公に重点が置かれるのは、まったくおかしなことではない。

 もし主人公が日本人だったら、ロドリゴと同じように、なんらかの形で「神に語られた」という描写がされただろう。あるいは冒頭に出てくるマカオの人間が主人公だとしたら、神はその中国人に「語られた」だろう。そこにやたらと西欧主義を持ち込んでくる必要はないと思う。

 また記事全体から感じる「日本バンザイ」的なニュアンスは何なのだろうね。そこはよくわからないけれど。

2017年1月27日金曜日

ある夕暮れ時に走っていたらふと気づいた、ある「視点」の話


 いつも小難しい話が多いので、今回はちょっと肩の力を抜いて書いてみたい。

■ランニング雑感

  私はランニングが好きで、時間があれば近所のコースに走りに行く。だいたい週2、3回くらい。
  ランニングのどこが好きかと問われたら、ただ無心になって走れるところ、と答える。ただ走るだけだから、球技や格闘技のような細かいテクニックは要らない。その日の調子で速く走ったり遅く走ったりするだけ。もちろん苦しくなるけれど、同時に爽快感もある。専用のグラウンドや器具が要らず、気軽にできるのも良い。

 私の好きな作家、村上春樹氏もランニングの習慣をお持ちのようだ。彼は1日何枚と書く量を決めていて、終わったらランニングをするようである。どういう表現だったか忘れてしまったけれど、走ることでいろいろリセットできる、みたいなことを彼は何かに書いている。

 その感覚は私も理解できる。リセットとはちょっと違うけれど、私は走りながら考えを整理したり、頭の中のモヤモヤをクリアにしたりしていると思う。
 たとえば当ブログの記事を書きあげたら、投稿する前にランニングに行く。で、走りながら記事について思いを巡らす。話の道筋はどうかな、論理的におかしくないかな、何か書き忘れてないかな、とか考える。するとだいたい、「あーこのことも書こう」とか「あの部分は要らないな」とか、いくつか改善点が見つかる。ランニングの後でそれらを修正し、ようやく投稿に至る。

 と言っても毎回ブログ記事のために走っている訳ではない。本当に何も考えないでボケッと走っている時もある。そっちの方が多いかも。

■ランニング中の気づき

 つい先日もコースを走っていた。午後4時半過ぎだった。ちょうど日没のタイミングで、大きな夕日が、ちょうど私の目線の先にあった。たいへん眩しかった。スポーツ用のサングラスをしていても眩しく、視界が悪かった(走っていて苦しかったのも影響しただろう)。向こうから来る人が、けっこう近くに来るまでわからなかった。

 で、そんなこんなで折り返し地点まできた。私はポールの周りを回って180°向きを変えた。ちょうど夕日に背を向ける形になった。
 すると一気に視界が開けた。夕日がすべてを照らし、クリアにしていた。私は道の先の先まで見通すことができた。さっきまでとはえらい違いである。敵だったはずの夕日が、急に味方になってくれたような感じ。何もかもがクリアだった。

 その時私はふと気づいた。視点が変わるとものの見え方も変わる、という当たり前の事実に。
 それは当たり前なのだけれど、案外重要なことだ。

 視点が変わると、世界は違って見える。

 カルトっぽい教会で頑張っていた頃の自分をふと思い出した。あの頃は「神様のために」と信じて、牧師に言われるまま働いていた。朝から晩まで働き、徹夜することも少なくなかった。突然呼び出されたり、理不尽な叱責を受けたり、皆の前で笑いものにされたり、今思い出すと腹立たしいことばかりだった。けれど当時は、純粋に「これが信仰だ」「これは神様からの訓練だ」と思っていた。

 たぶん当時の私がこのブログの記事を読んだなら、きっと「なんて不信仰な人だ」とか「何もわかってない」とか思うだろう。私がこのブログで批判的に書いている様々なトピック、たとえば「霊の戦い」とか「繁栄の神学」とか「預言的アクション」とか「ダビデの幕屋の礼拝」とか、そういうのを当時の私は大真面目に信じていたからだ。自分(と自分の教会)こそが「神の側」であり、真理に開かれており、他のすべての教会はイマイチわかってない、みたいな理解の仕方をしていた。非常に傲慢だったのである。でも自分では傲慢だなんてちっとも思っていなかった。

「当時の私」と「現在の私」とを隔てているのは、簡単に言えば「視点の違い」だと思う。向きを変えてみると、世界が違って見えるのだ。ちょうど太陽に向かっている時と、太陽を背にしている時とで、見え方が全然違うように。

 自分の教会の間違いや、それを引き起こしていた牧師の様々な嘘が、今ならわかる。すごくクリアに見えている。でも当時はまったく見えなかった。何となく疑問に感じる部分はあったと思うけれど、行動を起こすには至らなかった。

 と、そんなことを走りながら考えた訳である。

■群盲象を評す

 この話には、これといった結論はない。あえて続きを書くならば、ランニングを終えて家に帰ってシャワーを浴びた、みたいなどうでもいい話になる。そんなこと誰も読みたくないだろう。だから結論はない。

 ただ一つ書き加えるなら、たとえば原理主義的な人とリベラルな人との議論が結局どこにも到達しない、みたいなことがある。あれも突き詰めて考えてみれば、「視点の違い」が根底にあると思う。互いに向いている方向が違うから、見える景色も違うのだ。それぞれ違う風景を眺めているのに、あたかも同じものを見ていると錯覚したまま話しているとしたら、さてどうなるだろう。

 インド発祥の寓話に「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)」というのがある。
 何人かの盲人が、それぞれ象の一部だけに触れ、感想を述べ合う。鼻を触った者は「蛇のようだ」と言い、脚を触った者は「太い柱のようだ」と言い、耳に触った者は「扇のようだ」と言う。そして争いになる、という話。皆それぞれ正しいことを言っているだけに、誰もゆずらない。これもやはり「視点の違い」に基づく話であろう。

 なんか中途半端だけど今回はここまで。