2016年8月24日水曜日

「主の導き」を人が「判断」することについて・その2

 前回に続いて、「主の導き」について。

 前回は一部で語られている「主の導き」の3つの判断方法と、その判断に含まれる「主観」について書いた。
 今回はもうちょっと突っ込んで書きたい。小難しい話になると思う。

■「主観的判断」のケーススタディ

「主の導き」を主観的に判断するとは、たとえばこんな感じ。

 状況設定。
 ある男性が仕事を辞めて「献身」しようとしていて、「導き」を求めているとする。
 彼はフルタイムで教会で働きたいと願っている。でも問題は、仕事を辞めたら経済的保障を失う、ということ。だから躊躇している。
 それでしばらく祈ったり、聖書を読んだりしていると、「仕事を辞めて献身すべき」という方向と、「仕事を辞めないでも献身できる」という方向の、それぞれを支持する聖書箇所を見つけた。
 前者は大宣教命令とか、マタイ6章33節、Ⅱテモテ2章4節、マラキ3章10節あたり。
 後者は使徒18章3節、Ⅰコリント4章12節、Ⅰテサロニケ2章9節あたり。

 第一のケース。
 その人が独身で、多少貧乏しても自分が我慢すればいいだけの場合、仕事を辞めた際の経済的不安は、初めから低い。また教会が非常に協力的で、彼が教会で英会話教室なりギター教室なりを開くのを応援してくれて(そういう技能があればの話)、なんとなく新たな収入源を得られそうな見込みがあれば、不安はさらに減るだろう。彼はそういうのを見て「状況的に道が開かれている」と判断し、「障害が除かれている」と考えて、また上記の前者の聖書箇所を味方につけて、退職に踏み切る。

→結果1。
 その英会話教室なりギター教室なりがうまくいって大盛況になったら、彼は「仕事を辞めるのがやはり導きだった」と言う。
→結果2。
 教室関係がうまくいかず、どこかでアルバイトをしながら教会で働く(兼業献身)ことになったら、「自分はまだ未熟だから、兼業で働かなければならない、ということを主が教えて下さった。これが主の導きだったのだ」みたいなことを言う。

 第二のケース。
 その人が所帯持ちで、子供がまだ小さく、今の仕事を手放すのが現実的に困難な場合、退職を選ぶには、相当な勇気と覚悟がいる。また奥さんを説得するという難関が待っている。そしてそれがうまく行ったとしても、退職後に控えているのは「なんとかして家族を養い続ける責任」だ。十中八九、彼は「仕事を辞めないでも献身できる」という道を選び、上記の後者の聖書箇所を味方につける。

→結果3。
 特に変化なく生活を続け、教会でもそこそこ働いて、さほど心配なこともない。彼は「これが導きだったんだ」と言う。
→結果4。
 特に変化なく生活を続けるけれど、やはり「献身したい」という思いがある。彼は、「今は献身への祈りを積みあげるための大切な期間なのだ。主は私を、忍耐の道へ導いておられた」みたいなことを言う。

 考察。
 彼らにとっての「導き」とは、自分の置かれた「状況」と、予想できる「見込み」に支配された結果である。人間の頭で考えられる可能性の範囲から一歩も出ていない。そしてそれを支持する聖書箇所を、選択的に、また補強的に使っているに過ぎない。そして選択した結果がどうであれ、もう時間は戻らないし、結果はくつがえらないし、他を選択した場合の結果もわからないから、「これが導きだったんだ」と言うことになる。
 さて、これらの過程のどこに、神の超自然的な、「導き」を啓示するような介入があっただろうか。全部、単なる「主観的判断」で説明がついてしまうのではないだろうか。

■神は合議による決定を良しされる

「主の導き」を判断する3つの方法の、何が問題かと言うと、「主の導きは自分で判断していい」という考え方が根底にある点だ。自分で判断していいから、いろいろな事象を自分なりに解釈していいし、沢山のことを言っている聖書の「都合のいい部分」だけを抜粋して使っていいことになる。その結果についても厳しく吟味されないから、ますます自己判断がまかりとおるようになる。

 またその自己判断を「神の導き」「神の啓示」と言っていい風潮が一部の教会にあって、そこでは神の名のもとに、牧師や信徒が好き放題に言っている現状がある。

 しかし「主の導き」「主の啓示」で大切な視点だと私が考えるのは、たとえば西暦325年に開かれた「ニケーア公会議」のような、多くの関係者が集まって合議する場だ。

 ニケーア公会議では、キリストの「人性」を強調するアリウス派を、異端とする決議がなされた。そして「三位一体」の概念が確立され、正統教理とされた。だから現代の私たちが当然のように「三位一体」とか「キリストは人であると同時に神である」とか言うのは、この会議があったからだ。

 この会議における「人間たちの話し合いによる決定」が、その後のキリスト教の正統教理となった、という点に注目すべきだと思う。つまり、人間の側が話し合って決めたことを、神様は良しとされる、ということだと思う。
 たとえば上記の会議がなくて、一司教とか一司祭とかが「三位一体」を主張しただけだったら、今日のように広く受け入れられなかったかもしれない。

 よく「神の国は民主主義じゃない」とか言って、独裁に走る牧師がいる。そして自分が主張する「神からの啓示」を教会の最重要事項として、信徒に押し付けることがある。カルト化教会の現状だ。けれど、彼が使う「三位一体」というセリフ自体が、彼が否定する民主主義(合議による決定)の産物なのだ。

 たった1人が「特別な啓示」を受けたり、自分勝手に「主の導き」を判断したりするのは、キリスト教のそういう歴史的観点から見ても、「外れている」と私は思う。
 たとえば日本のあちこちの牧師が、「この教会は日本のリバイバルの中心として用いられる」みたいなことを「主に示されている」と言っている。けれど日本全体として考えてみると、あちこちに「中心」があることになってしまう。「神からの啓示」にしては、整合性が取れていないのではないだろうか。それでは神ご自身が整合性のない方になってしまう。はたして牧師たちが正しくて、神が間違っているのか。あるいはその逆か。

 ■「神様導いて下さい」の答えは、たぶん「導いてますけど、何か?」

 こうは書いても、私は「主の導き」を否定する立場ではない。神様はいつも私たちを導いておられる。私たちが願おうと願うまいと、導いておられる。いろいろ悪いことも起こるし、思い通りにもならないけれど、それでも神様は導きは私たちにある。
 しかし「導き」とは、私たちが安易に考えるもの、たとえば「○○を選びなさい」みたいな声が聞こえるとか、心にガーンと示されるとか、そういうこととは根本的に違うのではないだろうか。もしかしたら、そういう風に超自然的に導かれるような非常事態があるかもしれない。しかしそれは非常事態であって、平時のことではない。

「主の導き」とは少なくとも、先に挙げた「3つの判断方法」で、容易に読み解けるものではないと思う。主観的判断が強く影響するからだ。だから「導きは何か」と祈るのでなく、「○○をすべきと判断したから、どうか神様助けて下さい」みたいに祈るべきだと私は思う。

「主の導き」を人が「判断」することについて

■「導き」の理解の仕方のちがい

「主の導き」については何度も書いているけれど、懲りずにまた書きたい。

 たぶん「主(神様)の導き」については、教団教派によって、理解の仕方が全然違うと思う。大雑把にまとめるとこんな感じ。

①神様は日常生活の細かいことまで具体的に私たちを導いている。私たちは祈りや賛美を通して、それを事細かくキャッチして実行していかなければならない(導き絶対論)。

②神様は「ここ」という人生の岐路において導きを与えて下さる。私たちは祈りや礼拝などを通して、それをキャッチしなければならない。(半・導き絶対論)

③神様は常に私たちを導いておられる。と同時に私たちの自由意志による判断を尊重して下さる。その結果についても導いて下さっている。(自由意志尊重論)

 ちなみにこの順番には意味はない。

 カルト的教会の理解は①と②である。①が重度で②が軽度と言える。ただ「神が個別的な御心(私だけのオーダーメイドの御心)をその都度啓示して下さる」という点においては、まったく同じ。
 ただカルト的でなくても、聖霊派の多くは、①か②の理解をしていると思う。

 一方、リベラルに傾くほど(と一概に言えないようだけれど)、③の理解になる。つまり、御心(基本原則)は既に聖書に示されているのだから、その原則に基づいて自分(あるいは教会などの集団)で判断すべきだ、という理解。「すべてを益にして下さる」という言葉も、自分で判断するからこそでしょ、という理解。

 つまり、①②対③という対立。

 ただこの対立構図にも私は違和感がある。②が完全に否定されて③だけ、というのも考えにくいと思うからだ。

 しかしさすがに①はない。日常生活の細かな部分まで具体的に「導き」を求めなければならないとしたら、現実的には大変なことになってしまうからだ。よく冗談めかして書くけれど、それこそトイレに行くかどうかとか、ランチはどの店で何を注文すべきかとか、そんなことまでいちいち祈って導いてもらわなければならなくなる。「私はそういう風に導かれています」と主張する人もいるけれど、それは突き詰めていくと、呼吸は1分間に何回すべきかとか、今この瞬間に何についてどう考えるべきかとか、そういう生き方をしなければならなくなる。がんじがらめな状況じゃないだろうか。自由というより、むしろ不自由だと私は思う。

■「主の導き」を知る方法?

「主の導き」を判断する「いくつかの方法」を、信徒に教えている教会がある。例によって福音派・聖霊派の教会群だ。
 で、どんな方法を教えているかと言うと、

・御言葉(聖書の言葉)が与えられているかどうか。
・「平安」があるかどうか。
・実行する上で障害があるかどうか(あるいはその障害が減っていくかどうか)。

 を見て判断しなさい、という感じ。
 これはかつて私もまったく同じように教えられ、長いこと実践しようとしてきた「方法」だ。だからよく知っている(なので部外者でなく、「思いっきり中の人」として書く)。

 上記の3つのポイントの問題点、あるいは怪しい点は、「どれも自分の感覚や自分の判断次第で、どうにでも解釈できてしまう」という点だと思う。

 たとえば「平安」の有無は、ある事象に対してどれだけ安心感を持つか、あるいは不安感を持つか、という話だと思う。でも心配症な人は何がどうなっても、たとえ御使いが現れて「大丈夫だよ」と言っても心配なものは心配だろう。逆に楽天的な人は周囲がいくら心配してもイージーゴーイングに構えている。またそれまでの経験や知識から、まったく同じ事象を見ても、そこに安心材料を発見する人もいれば、不安しか見つけられない人もいる。
 つまり「平安」の有無とは、その人の性格とか気質とか、知識とか経験とか、置かれている環境とかによって左右される。単純に神からの(超自然的な)平安、とは言い切れないと思う

 また「よくわからないけど安心感があるんです。だから主からです」と言う人がいるけれど、それは神という超自然的な存在に対する「期待感」が根底にあるからだと思う。つまりある事象にのみ言えることではないのではないか。またそれはあくまで自分の側からの「期待感」であって、神の側から特別に与えられた、ある事象に対してのみ有効な「平安」、とは言い切れないと思う。

 また「実行するうえでの障害」の有無も、これまた個人差がある。たとえば「仕事を辞めて開拓伝道を始めるべきかどうか」と悩んでいる人がいるとして、そこにはいろいろな障害が考えられる。たとえば収入はどうするのか、生活は成り立つのか、どこに住んだらいいのか、どこでどういう対象に伝道すればいいのか、自分のマネジメント能力は大丈夫なのか、人が集まった場合の会場はどうしたらいいのか、とかいろいろ。でもそういうのを想像してみて「障害が大きすぎる」と感じる人もいれば、「なんとかなるっしょ」と軽く考える人もいる。だから「ある選択をするうえで、障害が減っていって選択しやすい状況になった」というのも、人それぞれの「見方の問題」が多分に含まれる。単純に「神様が状況を操作して下さった」とは、言い切れないと思う。

 だから上記の3つのポイントは、あくまで「主観」に基づいている。自分がどう感じたか、どう考えたか、状況をどう見たか、行けると思ったか行けないと思ったか。
 そういうことで「これはゴーサインだ」とか「今はまだ祈りを蓄える時期だ」とか判断すること自体、「主観」でしかないと思う
 あるいはそれを「神様からのサインだ」と主張するのもいいだろう。けれど、「主観」が混入している可能性を否定することは、できないのではないだろうか。

 というわけで次回に続く。

2016年8月20日土曜日

ウェーイでノリノリな教会の雰囲気について・その2

 前回に続いて、ウェーイでノリノリな、一部の教会の雰囲気について書きたい。
 おもに若者についての話になる。

 賛美の時なんかに、ウェーイとかヒャッホーとか歓声が上がり、みんなして飛び跳ねて踊って、「熱く」賛美する教会がある。会場自体が、照明グルグルでバンドはドンチャンだから、ウェーイな雰囲気になるのを大前提としている。牧師もユースパスター(←専門用語)も、「主に喜びの声をあげよう!」とか言って若者たちを煽る。だからウェーイって飛び跳ねて賛美するのがスタンダードであり、信仰的であり、「若者らしい」ってことになる。そうできない若者は信仰的でなく、若者らしくなく、何か問題があるとされる。ぶっちゃけ前者は教会内では「強者」、後者は「弱者」として扱われる。

 いくら牧師が講壇で「あなたはそのままでいいんです」とか「そのままで愛されているんです」とか言っても、いざとなると、若者たちはウェーイってなれるかどうかで判断される。

 と、いうのがウェーイな若者向けの教会の現状である。以上、前回のまとめ。

■1つしかない「成長」と「若者像」

 こんなことがあった。

 若者向けのライブが企画されて、教会の中高生たちが中心になって運営することになった(訓練ってやつ)。賛美だけでなく、ダンスとか劇とかゲームとか、若者受けしそうな演目をふんだんに交えたライブだった。それぞれ担当に分かれて、準備が始まった。

 ライブの司会を誰にするかという話になったとき、牧師がしゃしゃり出てきて、独断で司会を指名した。Aさんという女子だった。みな驚いた。Aさんも驚いた。なぜなAさんは、最も司会に向かないタイプだったからだ。

 Aさんは人前であれこれしゃべるタイプでなく、小道具を作ったり料理を作ったりという裏方が向いている人だった。本人もそういうのが好きだった。だから司会に選ばれて心底嫌だったと思う。というのは、やはりウェーイなライブになるのが前提だったので、当然ながら司会者に求められるのは、ウェーイでノリノリでハイテンションなパフォーマンスだったからだ。でもAさんは完全にその対極にいる人だった。彼女が弾けた感じで司会をするなんて、誰にも想像できなかった。

 当然ながらAさんは嫌がった。すると牧師が怒り出した。「みんな犠牲を払って奉仕してるんだよ? なんでAだけ捧げられないの? これは自分の殻を打ち破るチャンスでもあるんだよ?」

 要するに牧師の考えは、内向的なAさんの内面にブレイクスルー(なにそれ)を起こして、「よりよいクリスチャン」として成長できるチャンスを与えてあげよう、みたいなことだった。

 なんだかなあ。

 要は、みんなの前でウェーイって弾けることが良いことであり、成長であり、信仰的な「若者像」なのだった。その牧師によると。弾けられないのは自分の殻に閉じこもっているからであって、成長していない証拠とされた。多様性なんか関係ない。その一つの若者像にだけ価値があり、そこへ向かうことだけが「成長」とされる。

 でも外交的か内向的かは優劣の基準で語るもんじゃない。性格傾向の違いでしかない。他にもテンションの高低とか、声の大小とか、感情表現の有無とか、そういうのは人それぞれの個性であって、どれが優れているとか劣っているとか、そういう話ではない。

 ちなみにAさんは超真面目な人だったので、嫌々ながらも結局司会を引き受けた。そして「訓練」と「成長」のため、司会を頑張った。無理して弾けて、ノリノリになって、ウェーイってなって、痛々しいくらい頑張った。でも今思うとそれは「成長」なんかでなく、単に牧師の期待に応えただけだった気がする。そしてブレイクスルーなんかでなく、牧師好みの人間に変えられていっただけだった気がする。自分の自然な有り様に逆らって。

■なんとしても「ウェーイ」に持ってく

 ところで、ウェーイな教会であっても絶対に避けられないのが、「ウェーイってできない事態」だ。たとえば信徒が重い病気になって入院したとか、突然の不幸があったとか、教会に非常事態が起きたとか、そういう深刻な場面になると、さすがにノリノリでウェーイとは行かない。ヒャッホーは鳴りを潜めて、深刻に祈ったり、神妙な顔して話したりすることになる。

でもウェーイな教会は、あくまでウェーイしなければ気が済まない。礼拝の中で深刻に祈ったり泣き叫んだりしても、終わったら「主の勝利! ハレルヤ!」ってなり、最後はやっぱりウェーイとかヒャッホーとかで礼拝を閉じる。そういうケースを沢山みた。どんなに悲惨な事態で、解決が見えなくても、「主が勝利をとられたんだから、悲しんではいられない」みたいな理屈で、ヒャッホーしだす。なんだか、現実をちゃんと見ているのか見てないのか、よくわからない。それが信仰だという意見もあるかもしれないけれど、必ずウェーイに持っていかなければならない理由なんてあるのだろうか。「勝利」や「希望」を現すのは、ウェーイだけでなく、もっと静かな、内省的な形だってあると思うのだけれど。

■自由というより不自由

 前回も書いたけれど、ウェーイやヒャッホーそのものが悪いという話ではない。嬉しくてたまらなくて、ウェーイってしたくなる時もあるだろう(私個人はどんなに嬉しくてもウェーイとはしないけど)。でもウェーイ「しか」なくて、あるいは最後はウェーイで閉めなければならなくて、他のいろいろな表現方法を廃するのは、偏りすぎだと思う。そもそも何らかの感情表現をいつもいつもしなければならない、ということでもないと思う。もっと落ち着いた、あるいは冷静な形で礼拝を閉じたっていいと思う。礼拝の閉じ方に優劣とかあるわけでもあるまいし。

 むしろ必ずウェーイしなければならない、となることで、逆にウェーイに縛られ、自由をなくしていくこともあると思う。ちょうどAさんが嫌々ウェーイなノリの司会をして、でもそれがAさんに自由や解放を与えたかというと、全然そんなことなかったように。

2016年8月17日水曜日

ウェーイでノリノリな教会の雰囲気について

 昔見た動画を探したけれど、見つからなかった。こんな内容だった。

 たぶんアメリカの、とある運動会。中学生くらいの子供たちが徒競走をしている。観客席では父兄たちが歓声をあげて応援している。走っている小太りの男子(たぶんダウン症)が転んでしまい、取り残される。めげずに立ち上がってまた走り出すと、なんと一緒に走っていた子たちが、途中で彼を待っていた。そして皆で手をつないで並んで走り、一緒にゴール。転んだ子も転ばなかった子も皆1位。転んだ子の両親がそれを見て、感涙しながら拍手を送る。

 障害者を思いやる子供たちの素晴らしさを称えたいのか、障害者と健常者が共存していく大切さを訴えたいのか、あるいは競争に勝つだけが大切なんじゃないよ、と訴えたいのか。いずれにせよメッセージ性の強い動画だった。日本でも、優劣を意識させないために徒競走の順位付けをしない学校があるとかないとか、ちょっと都市伝説的な話もある。それと同じようなメッセージを私は感じた。

  競争原理こそ資本主義の根幹だと思うので、それを否定するのは、資本主義の自己矛盾のような気がする。けれどそれも一つの意見として受け入れられるのがまた、資本主義的な姿勢であろう。
 ただ私個人としては、転んだ子に合わせて皆で並んでゴールするのが「素晴らしい」なら、一切の競争を廃さないといけないし、競争を廃するなら、「敗北」による劣等感を遠ざけるだけでなく、「勝利」による優越感や自己効力感をも遠ざけることになるので、結果的に全体のクオリティが下がっていくと思う。つまり負けて悔しいから頑張ろうとか、努力の結果を体感できたから次も頑張れるとか、そういう健全性や成長性を失ってしまうと思う。
 またそういうPRにわざわざ「障害者」を使うセンスが、よく理解できなかった。

■教会で耳にした、同じような話

 ある聖霊派の教会で、若者向けの集会があった。
 若者向けの先進的な教会だったので、会場は照明がグルグル回り、バンドがドンチャンやる感じで、大多数の若者はノリノリで、飛んだり跳ねたり踊ったりしながらウェーイな「賛美」をしていた。でも何人かの子たちはそういう雰囲気に乗れず、立ち尽くしていた。まわりで大勢が飛び跳ねたりヒャッホーしたりして騒いでいたから、相当居づらかっただろう。彼らは明らかにマイノリティだった。

 好みやテンションは人それぞれだから、元気な賛美だからといって、必ずしも飛び跳ねてヒャッホーする必要はない。神様はそういうところを見ていない。けれどまだ若く、セルフイメージが不安定な年代にとって、マイノリティでいることは辛いだろう。大騒ぎするのがスタンダードな場面で、そうできない自分自身に、劣等感を抱くのも容易に想像できる。

 で、集会後。主要な若者たちが集まって、反省会を開いた。そこで出た意見の1つが、そういうマイノリティの子たちについて。
「私たちがジャンプして賛美すると彼らが居づらいだろうから、全員ジャンプしないことにしたらどうか」

 つまり、ジャンプして賛美できない子に合わせて、全員ジャンプしないで賛美しよう、ということ。転んだ子と一緒に走って、一緒に並んでゴールしよう、ということ。

 その意見はちょっと注目され、牧師も褒めていたけれど、最終的には「みな自由にすべき」ということで却下された。私は却下されて本当に良かったと思った。もし本当に全員がマイノリティに合わせてジャンプしなかったら、もともとジャンプしない子たちは、それを「ジャンプしない自分が悪いんだ」「自分がみんなに迷惑をかけた」と思って余計に居づらくなるだろうから。

■「強者」の一方的な善意

 こういうのは、マイノリティや弱者に対する「理解」に見えた「無理解」ではないかと思う。
  少数派であること、スタンダードでないこと、いわゆる標準に「達していない」こと、大勢がしていることを「できない」こと、そういうのを殊更に「かわいそう」「同情すべき」「助けてあげるべき」とするのは根本的には善意だと思うけれど、受ける側からすると「そうじゃない」ということがある。

 うまい例えかどうかわからないけれど、普段メガネをしている女子がたまたまメガネをしないでいると、まわりから「メガネしてない方が可愛いね」と言われることがある。まわりは褒め言葉として言っているんだけど、本人からしたら「いやいや、メガネしてる自分だって自分なんだけど」とちょっと複雑だったりする。

 あるいは「鬼ごっこ」で、まだ年少だったり足が遅かったりで明らかに不利な子を「味噌っかす」と呼び、「捕まっても鬼にならない」という特別ルールが適用されることがあったと思う。それは根本的には弱者に対する配慮なのだけれど、本人からすると完全に「蚊帳の外」で、はっきり言ってつまらない。不利でもいいからみんなと同じルールで遊びたい、というのが正直なところだろう。

 そういうのは強者の側の「一方的な善意」であることが多い。つまり、独りよがり。

 先の教会の例で言えば、「飛び跳ねて賛美すること」に絶対的価値がある、という「決めつけ」がある。だから飛び跳ねたくない子たち、飛び跳ねる必要性を感じていない子たちは一方的に「弱者」の側に立たされて、「全員ジャンプしないことで合わせてあげよう」みたいなトンチンカンな「強者の配慮」を受ける羽目になる。でも彼らの本当の戦いは、「飛び跳ねるか飛び跳ねないか」でなく、「飛び跳ねない」という選択を気兼ねなくできるかどうかである。つまり「強者」と思っている連中に、「ぜんぜん強者でない」と突きつけることである。

■教会で決めつけられた「若者クリスチャン」の理想像

 べつにウェーイなノリで飛び跳ねて「賛美」することが悪いとは思わないし、ヒャッホーでも何でもいいんだけれど、そういう「ノリ」こそが信仰的だとか、霊的だとか、「聖霊の喜びに満たされている」だとか、そいうことではない。ダビデが狂人みたいに踊り狂ったという箇所「だけ」取り挙げて、だから「踊り狂って賛美することが聖書的なんだ」とするのは極論であろう。聖書に登場する人物が全員例外なく「踊り狂って」賛美していたなら話は別だけれど、そんなこと書いてない。

 でもそういう価値観が、現代のクリスチャンの若者にけっこう蔓延している気がする。「ノリノリ」で「生き生き」した感じをアピールしないと、信仰的とか霊的とか認められないから、素の自分をちょっと捨てて、無理にウェーイってしている部分があると思う。しかしいつもいつもそうできるわけではないから、葛藤もするけれど、かと言って牧師や先輩にそれを相談することもできない、という状態(誤解のないように書いておくと、それは若者たち自身の問題でなく、そういう雰囲気を作っている牧師や教会の方にある)。

 それに関連した印象的な場面があって、今でもはっきり覚えている。
 やはり若者向けの賛美集会なんだけど、その集会の参加者はけっこう幅広い年齢層だった。上は高校生から下は幼稚園児まで。当然ながらノリノリな雰囲気だった。で、明らかに乗れてない、恥ずかしそうにしている男子高校生が数名いて、彼らは後ろの方で幼稚園児たちの面倒をみていた。「ほら、賛美するんだよ」とか「飛び跳ねてごらん」とか幼児に声をかけていて、はじめは面倒見がいいんだなくらいに思っていたけれど、後になってその真意に気付いた。彼らは自分自身が飛び跳ねて賛美できないから、「幼児の世話をする自分」を見せることで、それを免れようとしていたのだ。その証拠に、賛美が終わると幼児の面倒なんか全然見ていなかった。

 でもそれは、彼らが真意を隠しているというより、そうせざるを得ない雰囲気が集会にあった、ということだと思う。つまり「ノリノリで飛び跳ねて賛美するのがスタンダードだろ」という雰囲気が。

■『シン・ゴジラ』に見る日本人のスタンダード

 最後にくだらない話で終えるのだけれど、映画『シン・ゴジラ』を観た。
 内容には触れないけれど、日本政府と自衛隊と関係諸機関が力を合わせて頑張って、東京を襲う「巨大不明生物」(ゴジラ)と対峙する話。
 で、いくつかの作戦を展開するんだけど、悉く失敗してしまう。そしてタイムリミットが迫る中、最後の作戦に挑む。結果ギリギリのところで成功するんだけど、その時のみんなの反応が、一斉に「はぁ・・・」という溜息なのだった。これはすごいリアリティだと私は思った。

 これがハリウッドのパニック・スぺクタクル映画だったら、ミッションルームで固唾をのんで見守る関係者らがいて、作戦成功とともにウェーイってなって、拍手したり握手したりの大騒ぎになると思う。でも日本人の集団だとそうはならない。もちろん今はアメリカナイズが進んでいるから、ウェーイってなる人も少なくないと思う。けれどあくまで日本人のスタンダードはこの「はぁ・・・」という溜息の方だと私は思った。

 だから教会の賛美でウェーイってなるのはあくまで価値観の1つであって、それだけが聖書的なのでなく、またそれは必ずしも日本人の感覚に合っているわけではない。無理にウェーイとかヒャッホーとかする必要ないし、そうできない(しない)ことに負い目を感じることはない。といことをヒャッホーする側もしない側も共通認識して共存するのが一番いいのかもしれないけれど、さてそこに至るのもまた大変な道のりだろうとは思う。

2016年8月13日土曜日

決して認めない人たち

 この記事に腹を立てている。

「ビュン牧師セクハラ訴訟、判決確定を受けて教団が声明『納得がいかない結果』」(クリスチャントゥデイ)

 女性信徒へのセクハラで訴えられた牧師が、セクハラ行為を認定された。そして賠償責任を負う判決が確定となった。それを「納得がいかない」と言っている、という記事。

 もちろん、セクハラ被害が事実認定されたのは良かった。被害者の方々もこれで少しは報われたのではないかと思う。当然ながらその受けた傷は深く、回復にはまだまだ長い時間がかかると思うけれど。

 私が腹立たしく思うのは、こういう事件を牧師が起こしたのはもちろんだけど、その張本人が(事実認定されたにもかかわらず)事実無根だと言い続けていることと、当該教会も「納得がいかない」とあくまで牧師を擁護していることと、挙句の果てには「背後に『巨大な悪』が働いている」とかいう陰謀論を主張して、完全に責任転嫁していることだ。

 加害者が被害者ヅラする、という状況。

 聖職者はイメージが命だ。聖書に反しない「品行方正」な姿を維持しなければ、仕事を続けられない。だからセクハラ訴訟を起こされて事実認定されてしまったら、通常なら牧師としては終了である。それを避けるためには、とにかくセクハラなんて事実無根だと主張し続け、裁判のやり方に問題があると言い張り、原告(被害者)側を悪にし、背後に「巨大な悪」が働いていると言わなければならない。

 そういう事情があるから、問題を起こした牧師たちは、皆そのように言い逃れようとする。私が知っている問題牧師たちも、悪事がバレるとまずは無罪を主張した。言い逃れできないとわかると隠蔽工作に走った。隠せないとわかると被害者にも非があると言い出した。そして最後は「悪霊の働き」を持ち出した。決して自分の非を認めず、あるいは一部認めても、自分以外のいろいろなものにもっと大きな非があると言い張った。

  もう一つの問題は、こういう牧師を擁護する取り巻きがいる、という点。牧師1人が追い込まれれば状況は変わるけれど、仲間がいると責任追及が難しくなる。被害者が少数だったら尚更だ。下手すると牧師から被害を受けただけでなく、それを訴える過程で、更なる被害に遭ってしまう可能性もある。だから牧師の悪事を追及しようと思ったら、しっかり考えて、準備しなければならない。

■その必要がある場合

 もし牧師の悪事を追及しようと思うなら、やはり動かぬ証拠が必要になると思う。証拠がないと、いくら訴えても上記のように「事実無根」と言い張られてしまう。「牧師だから誠意をもって自分の非を認めるだろう」なんて期待したら大間違いで、むしろ全力で否定し、あるいは攻撃さえしてくる。だからどうにも否定しようのない、弁明しようのない、誰がどう見ても擁護できない証拠を押さえて、しかるべき機関(警察や弁護士事務所など)を巻き込んで、訴えるのが一番だと思う
 だから必要な手続きや証拠集めは水面下で行い、相手に気づかれないようにしないといけない。

 また1人で事に当たるのは難しいから、理解して協力してくれる仲間を集めた方がいい。同じ教会の信徒がいれば共通理解を得やすいかもしれないけれど、教会にどっぷりハマっている人は、むしろ敵になりかねない。
 だから他教会のクリスチャンでも未信者の友人でも家族でも、とにかく完全にあなたの味方になってくれる第三者で、(警察や弁護士への相談や訴訟手続きを含めて)実際に行動してくれる人たちを仲間にした方がいいと思う。

 でも仲間をつくると同時に、秘密保持に注意しなければならない。証拠集めに動いていることや、警察や弁護士に相談していることが牧師側に知られると、警戒されて証拠隠滅されるかもしれない。また(実際に動く前から)思わぬ反撃を受けるかもしれない。だから準備の段階からいろいろな人に話すべきでない。相手をよく選んで、必要な人だけに絞って、相談した方がいいと思う。

 他にも細かいことが沢山あるから、もし本当に牧師から被害を受けていて、刑事や民事で訴訟を起こすくらいな深刻なレベルだったら、ぜひ専門機関に相談してアドバイスを受けてほしい。ここで度々紹介している村上密先生もその手の宗教問題を扱っているので、きっと力になってくれると思う。私個人的あてにコメントを送っていただければ(もちろん非公開にする)、個別に対応させていただくこともできる(あんまり役に立たないかもしれないけれど)。とにかく1人で抱え込まないで、どんな形であれアウトプットすることが、動き出すキッカケになると思う。

■それでも認めない人たち

 ただ1つ覚えておくべきなのは、問題牧師たちは決して自分の非を認めない、という点だ。その悪事が完全に露見し、どうにも弁解できない状態に置かれたとしても、彼らは自分が悪かったとは認めない。あるいは一部認めても、もっと悪い何かをでっち上げて、責任逃れをする。

 上記の記事がそのいい例だ。
「裁判のやり方に問題がある」
「被害者たちは被害を捏造している」
「巨大な悪が働いている」
 そしてセクハラ認定された事実さえも否定する。

  だからあなたが勇気を持って牧師の不正を暴き、正義を成したとしても、牧師は牧師で「べつの正義」を振りかざす。そして逆にあなたを責め立てるかもしれない。あなたは努力したことが十分に報われたと思えないかもしれない。むしろ無駄だったのかと感じるかもしれない。

 そのように相手は「決して認めない人たち」なので、それを覚悟した上で事に臨むしかない。
 けれどそれ以前に大切なのが、そういう被害を避けることにあると思う。教会や牧師にのめり込んで、何でもハイハイ言ってしまうようなことのないよう、気をつけてほしいと私は強く願っている。