2017年3月24日金曜日

教会と個人のキョリ感・その3

「教会と個人のキョリ感」の3回目です。

 前回までは、教会に属するクリスチャンとして必要な「勉強」について、考えてみました。大雑把に言えば、「キリスト教」の概要を学んで客観性を持たないと、自分の教会をも客観的に見られなくなり、結果的に独善的な(あるいは狭量な)信仰になってしまう、というような話でした。

 今回は「勉強」から離れて、「感情」について考えてみたいと思います。教会と個人とを繋ぐ、いわゆる「心のキョリ感」についてです。

・「感情」がまず教会と個人とを繋ぐ

 はじめに復習になりますが、ある人が人生で初めて教会に行こうと思った時、ある教会の教派や種類をじっくり吟味して、「その教会に行こうと選択した」というのは稀なはずです。そうでなく、多くの場合、その教会がたまたま近所にあったからとか、知り合いがいたからとか、そういう「偶然性」に左右されて行ってみたはずです。明確な意図があったのでなく。

 だからその教会(教派)の教理や聖書解釈をじっくり精査し、他と比べてどうなのか、自分にシックリくるのか、納得感があるのか、などと考える過程もなかったはずです。そういうのはだいたい、後から少しずつ説明されて、わかってくるものだからです。

 実際に、多くの場合(例外もあるとは思いますが)、その教会と個人とを繋ぐのは、まず「感情」だと思います。

 たとえば牧師がすごく優しそうで好感が持てたとか、初めてなのにイロイロ話を聞いてくれたとか、教会の雰囲気がアットホームで良かったとか、隣に座った信徒がイロイロ教えてくれて助かったとか、そういう「良い人間関係」や「良かった体験」の積み重ねが、その人と教会とのキョリを縮めていくのだと思います。で、その積み重ねの結果、「この教会に通ってみよう」となるのです。

 つまり教理のような「理屈」から入るのでなく、「感情」から入るわけです。もちろん「福音を聞いて信じた」という理屈が大前提なのですが、「福音」に関してはどこの教会もさほど違わないと思います。
 そうでなく、ある一つの教会に、個人が根付いていく、そのプロセスには、やはり「感情」が大きく影響すると思います。人間とは、人間関係が満たされてはじめて、ある集団に根付いていけるものだからです。
 また人間関係のことばかりでなく、たとえば教会堂がすごくモダンで通い甲斐があるとか、プロ級のゴスペルが聴けていいとか、そういうのも「感情」の範疇でしょう。
 現在どこかの教会に属している皆さんは、これには概ね同意されるのではないかと思います。

・「感情」に影響される教理や聖書解釈

 そういうわけで、繰り返しになりますが、その教会の教理や聖書解釈については「後から」知っていくことになります。そしてそれ自体は、現在の日本では割と普通のことだと思います(諸外国の事情は知りません)。
 しかし残念ながら、これがしばしば問題を起こすことがあります。

 一例を挙げると、たとえばそこが「異言」を語る教会だった場合。

 多くの「異言」系の教会では、未信者の前でおおっぴらに「異言」を披露するということはありません。だから信徒になって間もない人は、そもそも「異言」なんて知らないよ、聞いてないよ、という状態であることが多いです。
 で、ある時(祈祷会などで)、いつもの牧師先生や先輩信徒の皆さんが、突然、ワケのわからない言葉で祈り出すわけです。ナンジャコリャ、となります。相当な衝撃です。ヤバイところにきてしまったのではないか、みたいに感じるかもしれません。

 後からそれが「異言」だと説明されるのですが、それを受け入れられるかどうかは、個人差が大きいしょう。でもそこで重要な役割を担うのが、「感情」です。どれだけ教会や牧師や信徒たちに対する信頼感ができているか、というのが決め手になり得ます。そして「この人たちが言うことだから」と、「異言」を受け入れていく人も大勢います。

 つまり「感情」が、「ちょっと受け入れがたい教理」をも、受け入れさせるわけです。

 そしてそうだとしたら、(表現が悪いかもしれませんが)それは「信仰」でなく、「付き合い」なのだと私は思います。抵抗感があるのに、人間関係を気にして、抵抗感を我慢してしまったからです。もしその人が、教会での人間関係(信頼関係)ができあがる前に「異言」を見せられたなら、必ずしも受け入れなかったはずでしょう。
 つまり人間関係が、本来あるべき反応を邪魔することがある、ということです。皆さんはどう考えるでしょうか。

・「感情」が聖書を解釈してしまう

 当然ながら、これは「異言」の話ばかりではありません。他のイロイロなケースでも同様です。

 もう一つ例を挙げますが、ある牧師が、牧師夫人に日常的にツラく当たっていました。夫人が何か粗相すれば、「なにやってんだよ!」と人前で罵倒します。夫人が電話にすぐに出ないと、「俺を待たせるな!」と怒鳴ります。でもその牧師は、信徒には、基本的に優しく接するのです。
 信徒は多少なりとも混乱します。自分には「親切な牧師先生」なのに、現実に妻にはツラく当たっている、そのギャップをどう埋めればいいのか、よくわかりません。

 聖書には「妻にツラく当たってはいけない」という箇所があるのに、牧師は目の前で妻にツラく当たっているのです。かと言って、「牧師が悪い」と言うこともできません。牧師は自分には親切だし、実際にイロイロお世話してくれているからです。
 では何が悪いのか。牧師が悪くないとしたら、怒られることをしてしまった夫人が悪いのか。これは夫人に対する「訓練」なのか。あるいは聖書のこの記述は、現代には当てはまらないのか。そういうことをイロイロ考えます。で、自分なりにどこかで納得するわけです。

 要は聖書の記述より、現実が優先されるのです。あるいは現実に合わせて、聖書が解釈されるのです。自分がすでに教会に属していて、イロイロな(信仰的な)既成事実ができていますから、今更牧師がどうとか、教理がどうとか、言えなくなっているのです。この場合で言えば、妻にツラく当たる牧師を、聖書解釈を変えることで肯定しようとするわけです。

 つまり「感情」が、聖書を解釈してしまう、ということです。

 これと同じようなことは、実際には少なからずあちこちで起きていると思います。でも教会と個人のキョリ感としては、問題があるなあと私は思うのです。
 さて、皆さんはどう考えるでしょうか。

2017年3月21日火曜日

教会と個人のキョリ感・その2

 教会と個人のキョリ感について、2回目です。
「よその教会のことはわからない」という人は、自分の教会とのキョリが近すぎるのではないでしょうか、というのが前回の趣旨です。教会が近すぎて、他が見えなくなっているような状態(あるいは見る必要性を感じない状態)なのだと思います。だからクリスチャンはそれなりの「勉強」をして、視野を広く持つべきだ、ということです。
 ただ「勉強」と言っても、教会内で開かれるバイブルスタディとか、個人的な聖書研究とかのことではありませんよ、という話でした(詳しくは前回の記事を参照して下さい)。

 あるいは「勉強する暇なんてないよ」と言う方もおられると思います。仕事や学業や家事や育児や介護など、たしかに私たちの毎日は忙しいです(ただあまりに忙しいなら、教会に行くこと自体を検討した方がいいような気がしますが。個人的には)。だから無理に勉強しろとは私は言いません。ただそれでも理解しておいていただきたいのは、キリスト教はただ一つの教会(教派)だけが絶対的に正しいということはない、ということです。逆に、それだけわかっていただければ、とりあえず文句はありません。

・どの教派が正しいのか? というナンセンス

 実はこれは、冷静に考えればわかることだと思います。
 聖書は、実に多角的に読める書物です。様々なことが書かれていますが、中には互いに相反する記述もあります。またある箇所の意味するところは、必ずしも一つに断定することができません。解釈の幅があるからです。もちろんシンプルかつ明確に書かれていて、読み間違えようのない箇所もあります。しかしそうでない箇所が多いです。たとえばパウロの書簡などは、現代に至るまで、様々な研究や議論がなされてきていますが、未だに着地したとは言えません。
 そして、そういう解釈の幅があるからこそ、様々な教派に分かれている、と言うこともできると思います(もちろん必ずしも解釈の違いだけで分派してきたわけではありません)。

 もし仮に、聖書の全編が、これ以上ないくらいシンプルに、明確に書かれていて、誰も読み間違えようのない内容だったとしたら、きっと一つのシンプルな解釈だけになるでしょう。すると現在のような多彩な教派に分かれる必要もなかったことになります。一つの教義、一つの教派、一つの教団、で済んだはずです。

 でも実際にはそうはなっていません。なぜか。それは各教派によって解釈が異なり、強調点が異なるからです。そしてそれが許されているからです。聖書自体にそのような幅があるからです。もちろん本筋においては一本なのですが。
 だから、「どの教派が正しいのか?」という疑問は、それ自体がナンセンスだと私は思うわけです。

・「正しさ」を主張する論理

 そういう状況であるにもかかわらず、「自分たちこそ正しい」と豪語して憚らないグループもあります。
 ここで「グループ」と書いたは、ある教派の全体(その末端に至るまで)が、必ずしも「自分たちこそ正しい」と言っているわけではないからです。ぶっちゃけると福音派や聖霊派なのですが、その系統のクリスチャンの全員が、自分たちの正当性を盲信しているわけではありません。中には冷静な人もいます(あまり多くはない印象がありますが)。

 だから「自分たちこそ正しい」を豪語するのは、教会単位の話になるかと思います。
 そしてそういう教会は大概、信徒が教会にベッタリ密着しています。熱心に奉仕し、毎日のように教会に通い、もう個人の生活の全てが教会と共にある感じです。教会とのキョリはゼロに等しいかもしれません。

 そういう教会は、信徒が他教派について学ぶことを推奨しません。いや、ほとんど禁止していると言っても過言ではありません。なぜかと言うと、「自分たちだけが正しい」からです。自分たちが唯一正しいのだから、他の間違っている教派について学ぶ必要はない、いやむしろ知らない方がいい、というような理屈です。

 そこではしばしば、「真理の回復」という言葉が使われます。

 どういうことかと言うと、これはペンテコステ派の一部で熱く語られていることですが、西暦313年、ミラノ勅令でキリスト教がローマ帝国の国教となって以来(つまり国を挙げての迫害が止んで以来)、教会は世俗化した。そして本来持っていた「真理」を失ってしまった。その後十数世紀に渡って、教会は暗黒時代を通った。しかし1517年にルターが宗教改革を起こして以来、「真理」は歴史の中で少しずつ回復していった。と、いうようなお話です。
 で、そこに各教派が絡んでくるわけです。まずカトリックは、宗教改革を起こされるくらい堕落してしまったのだから、ダメ。ルーテル派はルターの改革の流れを汲んでいるけれど、そこで止まってしまったから、ダメ。バプテストは洗礼を強調するけれど、そこで止まってしまったから、ダメ。ホーリネスは清めを強調するけれど、そこで止まってしまったから、ダメ。つまりどれも「中途半端」で、「真理が回復していない」と言うのです(ちなみにその他の教派、長老派とか改革派とか会衆派とか、東方正教会とかには、まったく言及されないものもあります。もしかしたら存在自体を知らないのかもしれません)。
 で、そんな中で燦然と現れたのが、我々(ペンテコステ派の一部)なのです! 我々は「異言」の回復に預かり、「奇跡といやし」の回復に預かり、「預言」の回復に預かり、「炎のバプテスマ(なにそれ)」に預かり、「五役者(5人の俳優という意味ではありません)」の回復に預かり、これからも様々な真理の回復に預かって行く、選ばれた種族なのです!
 と、いうような話になるわけです。

 要は、自分たちは「選ばれて」いて、「真理の回復」を与えられている。でも他の教派にはそれは開かれていない。理解することもできない。というような主張。

 カルト化の一本手前、みたいな状況ですね。

・「聖書だけ」とは言うけれど

 そのような教会では、前述の通り、信徒が他教派について知るのを良しとしません。だから「教会史」など教えません。教えたとしても、それは「自教派の歴史」になります。
 それよりも、プロテスタントの出発点でもある「聖書だけ」を強調します。「聖書から学べばそれで十分だ。キリスト教関連の書籍だからと何でも読むべきではない。必要なことは聖霊様が教えて下さる」というような理屈です。だから信徒はそちらの「勉強」に熱中することになります。

 そういうわけで、何年たっても、教会史なんて知らない、他教派のことなんて知らない、という状況になってしまうのです。でも、彼らには危機感みたいなものはありません。なぜなら、繰り返しになりますが、「間違っている教派のことなんて知る必要ない」からです。

 だから、前回書いたような、「他教派のことを正しく理解していないのに間違っているとハナから決めつける」という状態になるのですね。

 でもそういう教会の言う「聖書だけ」は、実は聖書だけではありません。というかそもそも、純粋な意味での「聖書だけ」は、ほとんど不可能ではないかと私は考えます。なぜなら聖書を読むとき、そこには必ず「どう解釈するか」という問題が付きまとうからです。そして前述の通り、解釈には「幅」があり、何かを「選択」することになるからです。

 だから「聖書だけ」を強調する教会自体、「自前の聖書解釈」をもって聖書を読んでいるわけです。そこには同系統の牧師や教師、神学者など先人の皆さんの研究、解釈、主張などが含まれています。そしてそれらは、数ある解釈の中の一つなわけです。間違っているとは言えません。けれど、それが唯一絶対に正しいとも言えないのではないでしょうか。

 つまり、「聖書だけ」というのは、「自教派の読み方に従って聖書だけを読む」ということになります。

・教会と個人のキョリ感

 それは、信徒と教会のキョリを限りなく縮めていきます。そして他教派とのキョリを限りなく遠ざけていきます。

 一つの教会にずっと通い続ける、仕え続ける、というのは良いことだと思います。何も否定されることではありません。ただ、それが高じて、「この教会だけが正しい」「他は間違っている」と考えるとしたら、それは少なからず問題だろうと私は思うのです。エキュメニカルの観点からみても、そうでしょう。自分たちの正当性だけ主張していたら、当然ながら孤立していくことになりますから。

 一つの教会で教会生活を送ることと、キリスト教について学ぶこととは、本質的に違うと私は思います。毎週礼拝に出席して説教を聞いても、広義のキリスト教について学んだとは言えません。どちらかと言うと、教会生活はキリスト教の「実践」だと思います。「学習」はまた別に捉えるべきだと思いますね。
 その意味で、教会とのキョリ感が近すぎるというのは、「実践」だけで「学習」がない状態、とも言えます。もちろん当人は「勉強しているつもり」なのですが、そのへんの事情は、前述の通りです。

 キリスト教において「実践」が大切なのは言うまでもありません。しかし「実践だけ」だといろいろ弊害が出てきます。つまり自分の教会とのキョリが近すぎると、いろいろ害が生じてくるわけです。

 キリスト教の勉強と必ずしもイコールではありませんが、キリスト教関連の書籍を読むのはいいことだと思います。やはり知識が広がるし、視界が開ける感じがします。読む前と後では全然ちがう、ということも少なくありません。
 もちろん本と言ってもイロイロあるのですが、とりあえず興味関心のあるものから手に取っていいんじゃないかなと思います。これが良いとかあれがダメだとか、そういうのは自分で読んで経験してみるのが一番です。あんまり一つの教派に偏った本ばかり読むのもアレですですけれど。

 ただ、そもそもの入り口として、イロイロな本を気軽に読めるというのは、自分の教会と適切なキョリが取れていないと、なかなかできないと思います。教会とのキョリが近すぎると、他教派というか、キリスト教界全体に関心を持ちづらくなるからです。だから(一概には言えませんが)どれだけキリスト教書籍に関心を持てるかというのは、自分と教会とのキョリを測る一つのパロメータになるのではないかな、と私は思います。
 あ、単に読書嫌いだというお方はその限りではありませんが。

2017年3月18日土曜日

教会と個人のキョリ感

 前2回にわたって、『キリスト教のリアル』の書評を書きました。
 同書を読み終えてしばらく経ちますが、今でも考えさせらるのは、「よその教会のことはわからない」というクリスチャンの現状についてです。これについては、前回の記事に書きました。

 もちろん、よそのあらゆる教会について、詳しく知っている必要はありません。それはそれで大変なことになってしまいますから。しかし、教派間の「ちがい」とか、概要については、ある程度知っておいた方がいいと思うわけです。自分の教会のことしか知らなくても、教会生活なり信仰生活なりを送ることはできます。けれど(多少言い過ぎかもしれませんが)「キリスト教」を十分理解しているとは、言い難いのではないでしょうか。

 では、どうしたら良いのでしょう。一人一人が「よその教会(教派)」について知識を得て、一括りにできない「キリスト教」の多様性を知り、「自分の教会(教派)」をある程度客観的にみられるようになれれば、良いのではないかな、と私は思います。そのためには、個人個人の「勉強」が欠かせないのではないでしょうか。

・でも、勉強ならしてますけど・・・?

「勉強」の話になると、「聖書の勉強ならしてますけど」と言う人がいると思います。結構なことだと思います。
 たしかに、毎日聖書を読み、黙想し、礼拝で説教を聞き、教会のバイブルスタディに参加し、方々のカンファレンスに行くような、熱心な人が少なくないと思います。自身のブログやSNSアカウントで、聖書研究を展開している人もいます。

 しかし私がここで言う「勉強」とは、そういうものではありません。

 教会内のバイブルスタディや、教派単位で開かれるカンファレンスは、それはそれで知識を得る機会ではあるでしょう。しかしあくまで教会内(教派内)で統一されている教えなり聖書解釈なりに基づいた知識を得ることになります。自教会への帰属意識を高める効果はあるでしょうが、他教派について知る機会とはなりません。
 個人的な聖書研究にも同じことが言えます。なぜならその研究の仕方が、自教会で教えられている聖書理解に基づいているからです。研究自体が悪いと言っているのではありません。他教派について理解する機会にはならない、と言っているのです。

 このように、「バイブルスタディ」と「キリスト教学習」とは分けて考えられるべきだと思います。前者は(教派的な)主観性を強め、後者は客観性を強める、と言うことができるかもしれません。しかし、しばしば混同されることがあるようです。

・何をもって「間違っている」と言えるんでしょう・・・?

  原理主義的な教会(クリスチャン)に顕著な気がしますが、「自分の教会(教派)こそ正しい」という主張が時々見受けられます。つまり他の教派は全部(どこかで)間違っている、というわけです。あるいは公にそういうことを言わなくても、教会内では(牧師が)明確に言っている、ということがあります。

 個々人のクリスチャンの議論においても、前提として他教派を認めていないんだなあと思わせる発言が見受けられます。
 たとえばですが、福音派・聖霊派あたりには、カトリックを毛嫌いしている人が多いようです。理由は偶像崇拝しているからとか、マリアを拝んでいるからとか、聖人を拝んでいるからとかです。カトリック信徒を罪人だとか、悪魔だとか呼ぶこともあります。でもそれは、古い知識に基づく誤解だと言わざるをえません。カトリックについて少しでも学べばわかることですが、彼らは「象」を記念や象徴として、あるいは視覚的な信仰表現として、使用しているわけです。物体そのものを拝んでいるのではありません。マリアや諸聖人を「神」として拝んでいるのでもありません。そうでなく、言うなれば彼らを信仰の先輩として、尊敬の対象として、見ているわけです。カトリックも時代を経て刷新しているのです。

 そういうことを知らないで、カトリックを前時代的だと断ずるとしたら、その方がよほど前時代的な気がします。

 と、いうのはほんの一例です。ですがこのように、「自分たちの教派こそ正しい、他は間違っている」と思っている人たちには、そもそも他の教派に対する正しい理解がない、という場合があります。実はよく知らないのに、あるいはイメージとか伝え聞いた話だけで、ほとんど盲目的に「間違っている」と考えているのです。

 もし身近に、他教派を批判する人がいるなら、各教派のどこが間違っているのか、何がダメなのか、具体的に尋ねてみて下さい。果たしてどこまで答えられるでしょうか。いろいろ難しそうなことを言って誤魔化すかもしれません。そしてそれ以前に、そもそもの話、「他の教派」と言っても具体的にどういう教派があるのか、ちゃんと知らないかもしれません。

 余談ですが、「批判する人」は2種類に分かれると私は考えています。一つは「その分野に詳しい人」です。詳しく知っているがゆえ、何が問題なのか明確になっており、結果的に批判に至るのです。もう一つは「表面的にしか知らない人」です。ほとんど感覚的な動機で批判をしてしまいます。しかも聞く耳がないという、なんともはやな状態です。

・知ることのメリット

 他教派について知ることは、そのまま自分たちの教派を再発見することに繋がると思います。自分たちの教派が歴史的に、キリスト教界的にどこに位置しているのか、見えるようになってきます。また宗教的儀式、たとえば洗礼や聖餐についても、それらがどのように理解されているのか、どのような変遷をたどって現在に至っているのか、わかるようになります。それは信仰生活にとってプラスとなるでしょう。他教派の良さや、自教派の課題点も見えてくると思います。すると客観性が生まれ、むやみに批判することもなくなります。

「自分たちの教派こそ正しい、他は間違っている」と思っている人は、おそらく教会にベッタリなのだと思います。自分の教会を絶対視し、盲信しているわけです。教会とのキョリ感が、近すぎるような気がします。

 話はこの「教会とのキョリ感」に帰結すると思います。キリスト教についてもいろいろなことを広く知ることで、視野が広くなり、多角的に考えられるようになるでしょう。自分の教会だけ、とか、自分の牧師だけ、とか、そういう一極集中的な見方は、なんとも窮屈ではないでしょうか。

 というわけで次回に続きます。

・関連書籍

2017年3月15日水曜日

【書評】『キリスト教のリアル』・その2

・たまたま行った教会

 最近読んだ書籍『キリスト教のリアル』(著・松谷真司)から2回目。
 今回は本書の第1部から、気になった部分を抜き出して、考えてみたいと思います。
 ではさっそく。
(以下引用)ーーーーーー

「カトリックがバチカンのローマ教皇庁を頂点とする、世界的な組織と教理の一貫性を公に保持しているのに対し、プロテスタントの場合は、ネットワークや組織が教派ごとに細かく分かれています。(中略)
 他にも東方正教会、聖公会などの教派があり、また同じプロテスタントの中にも改革派、ルーテル、バプテスト、メソジスト、ホーリネス、ペンテコステ派、ブレザレン、救世軍、無教会などと細かく分かれています。(中略)
 日本の場合、これらの教派を選んで入信するのは稀で、たまたま生まれ育った家庭や地域、教会、学校の縁でその教派に属することが多いようです。」

(引用終わり)ーーーーーー
 これはその通りだと思います。普通に日本人をやっていたら、「教会」と聞くと、ステンドグラスとかトンガリ屋根とか、パイプオルガンとかガウンの神父さんとかを連想するだけで、実は百以上の教派に分かれているなんて、知りようがありません。だから教会に行ったことのある人の大多数は、その教会がどんな系統のどんな教会なのかをあらかじめ知ったうえで、選択的に行ったのではないでしょう。それより、たまたま近所にあったからとか、親が通っているからとか、友人に誘われたからとか、たまたまイベントをやっていて入りやすかったからとか、そういう「偶然性」に左右されたはずです。たぶん「選んだ」という感覚はないでしょう。

・ファーストコンタクトだけど「唯一の」コンタクトになるかも

 これは仕方のないことではありますが、なかなか難しい問題も孕んでいるなあと思います。なぜなら、たまたま行ってみた初めての教会が、その人にとってキリスト教とのファーストコンタクトとなるだけでなく、多くの場合、「唯一の」コンタクトとなり得るからです。
 なぜかと言うと、初めて行った教会にそのまま通い続けることになると、他の教会(他の教派)に行く機会も必要もなくなるからです。そして教会は信徒に、他の教派のことを積極的に知らせようとか教えようとかしません。普通は。だから他の教会のことなんて何も知らない、という信徒ができあがるわけです(もちろんそうならない場合もありますが)。
 そして他の教派のことは一切知らないとしたら、その人の教会観なり信仰観なり「神観」なりは、その教会から教えられたもの「だけ」になります。
 それの何が問題かと言うと、本来キリスト教が持っている多様性や、キリスト教会の歴史や変遷を、知らないままになってしまう、ということだと思います。それは非常に狭い視野で「キリスト教」を理解していることになるのではないかな、と私は思います。

・狭まる視野

 もっとも、入り口がどうであれ、後から勉強して知識を身につければいいじゃないか、という考え方もアリだとは思います。そういう人も現にいます。ですが、現実的には、それは一個人の興味関心に大きく依存する話だと思います。つまり他教派について知る機会がどこかに大きく開かれていて誰でも簡単にそれを習得できる、という状況ではなく、あくまで個人が頑張って調べないとわからない、ということです。
 実際、どれだけの(一教会に籍を置いている)クリスチャンの方が、他の教派について詳しく知っているでしょう。教会の歴史について熟知しているでしょう。本書にも書かれている通り、「よその教会のことはわからない」という方がほとんどではないかと思います。私の実感としてもそうですね。

 ちょっと話がズレますが、以前コメントをいただいた中に、「教会に5年くらい通っているけれど神学なんて全然知らない」という人もいました。でもさして驚くことではありません。教会生活が始まると、それはそれで、なかなか勉強する時間がないのもまた事実だからです。

 もちろん知らないこと自体が、必ずしも問題になるわけではありません。ひとつの教会に何十年も通い続け、ひたすら黙して仕え続けて、人生を全うする方もおられます。それはそれで尊敬に値する生き方だと私は思います。

 しかし、たとえば人前で「キリスト教って◯◯なんだよ」「神様は◯◯なお方だよ」みたいなことを語る機会が多い人がそうだとしたら、いささか問題になると思います。その人が語る「キリスト教」や「神様」が、かなり部分的だったり、偏っていたりするからです。他の教派の人からしたら、「勝手にキリスト教を代表してくれるな」って話になりかねません。

・いきなりハードモード

 あるいは、キリスト教とのファーストコンタクトが、いろいろと縛りの多い原理主義的教会だったとしたら、どうでしょう。話をわかりやすくするためにちょっと極端に書きますが、教会で、たとえばこんなふうに言われるとします。

「日曜は毎週必ず礼拝に出席しなさい。病気でも信仰をもって来なさい」
「什一献金は絶対に毎月捧げなければなりません。神から盗むことになりますから」
「毎日1人には福音を語りなさい。時が良くても悪くてもしっかり語りなさい」
「たえず祈りなさい。文字通り24時間を祈りに捧げなさい」
「進学先、就職先、転居先ではクリスチャンであると最初に明言しなさい。この世と調子を合わせてはいけません」
「未信者との交際は避けなさい。霊的悪影響を受けますから」
「仏式の結婚式や葬式は避けなさい。燃香もいけません。偶像崇拝になりますから」
(その他もろもろ)

 さて、ここまで言う教会はさほど多くはないと思いますが(でも存在はします)、かなり厳しい「縛り」だと言えるでしょう。
 でもその教会「しか」知らないとしたら、その信徒にとってキリスト教とは「そういうもの」になります。それで疲れてしまって、もう教会なんて二度とごめんだ! みたいな気持ちになってしまったとしたら、その責任は、いったいどこにあるのでしょうかね。

 なんと言うか、買ってきたゲームをいきなりハードモードでプレイするようなもの、って気がします。

 そういう可哀想な事態にならないために、本書みたいな書籍が一般に読まれ、少なくとも「プロテスタントは沢山の種類に分かれている」くらいの知識がスタンダードになってくれれば、また状況は変わるのではないかなあと思うのでありました。

 これについて何か良いアイディアがあれば、ぜひ教えて下さい。ということで今回はこのへんで。

2017年3月13日月曜日

【書評】『キリスト教のリアル』

 ぜんぜんタイムリーではありませんが、『キリスト教のリアル』(著・松谷真司)を読んでみました。出版されたのが1年くらい前で、ずっと興味がありましたが、諸事情あってスルーしていました。
 ではさっそく。

・書籍紹介(裏表紙から)
 日本人の0.8%しか知らない「キリスト教」
 近年、様々なメディアでキリスト教が取り上げられているが、その多くが「(日本における)現場・現実」と接点のない、「歴史や教養」のひとつとして語られることが多い。日本に約0.8%いると言われているクリスチャンや牧師・神父の現状を書いた、「キリスト教の今」を知るための一冊。

・クリスチャンの方が楽しめるかも
 内容はだいたい上記の通りです。「キリスト教の今」を知らない人向けに平易に書かれています。つまりノンクリスチャン向けかと。でも本文にもある通り、「よその教会のことは知らない」というクリスチャンの方も多いと思いますから、たぶんクリスチャンが読んでも面白いと思います。むしろ別の教派の実情を知って「へえ、そうなんだ」という発見があるのは、クリスチャンの方かもしれません。

 第2部の対談のメンバー(人選)がまたバランスとれてて面白かったです。
 カトリックから晴佐久昌英さん、福音派から森直樹さん、ルーテルから関野寛和さん、会衆派から川上咲野さん、という絶妙感。対談中、晴佐久さんと森さんがケンカになるんじゃないかと読んでてヒヤヒヤする部分がありましたが、そんなことは全くありませんでした。森さんがすごく冷静で、「福音派は◯◯って言ってますよ」みたいに(自分の所属する教派なのに)距離を置いているのが良かったです。個人的には。

 ただ「キリスト教の今」と言うより、厳密には「牧師・神父の今」と言うべき内容かな、と思いました。対談のメンバーが牧師・神父なのでそれは仕方ないのですが、いわゆる「教会」や「クリスチャン(一般信徒)」のリアルが書かれているわけではありません。あくまで牧師・神父の目線で語られているわけですね。

 だから逆に言うと、牧師・神父の諸事情がわかって面白いです。普段のスケジュールとか休日とか、給料とか、結婚とか家族とか、世襲とか定年とか、普段(普通に教会生活を送っていると)なかなか聞けない話ばかりです。そういう意味では、やっぱりクリスチャン向けなのかな? とも思います。

・感心したセリフ
 個人的に傍線を引きたくなったセリフを一箇所紹介します。
 牧師・神父の数が減少傾向にあり、必然的に教会数も信徒数も減りつつある、という下りで晴佐久さんが言ったのがこれ。

「(日本の教会は)それこそ翻訳の福音のようなものを必死に学んで、形式的に語って、これが正しいって言い張って。誰も目の前で救いの喜びを感じていないのに、理解力のないお前が悪いみたいな感じの、一方通行の語りだけだから。果たしてそれをキリスト教と読んでいいかどうか疑問があります」

 この「一方通行の語り」というのが、けっこう多いんじゃないかなあと同意するところです。一方的に語っておいて、相手が同意しないと、「理解力がない」「霊的に開かれてない」「悟る力がない」みたいなことを平気で言う教会指導者がいるなあと。

・笑えたセリフ
 電車の中で読んでて思わずクスッと笑ってしまった(恥ずかしかった)箇所も紹介しましょう。
 牧師・神父の「趣味」という話題で、関野さんの趣味がキックボクシングだとわかった後の下り。

森「(自分の教派では)やっぱりまじめな牧師たちが多いので、キックボクシングが趣味なんてあり得ない(笑)」
関野「でも、牧師は人を殴れないじゃないですか」
松谷「牧師じゃなくても人は殴れないですよ」

 この空気感はぜひ本書を読んで味わってほしいのですが、松谷さんのツッコミがかなり鋭くて、時々笑えます。
 ちなみにこの後、すかさず川上さんがシレッと別の話題を始めているあたりがまた良いですね。

・シメがほのぼのしてて良い
 最後のセリフが私はけっこう好きです。またしても晴佐久さんの言葉なのですが、

 みんな一緒にいるなら、地獄も天国になっちゃうんじゃないですかね。

 これは教義的にどうこうという類の話でなく、文脈の中で冗談ぽく語られた言葉です(だから教義的なツッコミは勘弁して下さい)。でも、「信じたら天国、信じなければ地獄」というステレオタイプな(そしていささか窮屈な)宗教観を押し付けられるより、ずっとほのぼのしてて良いなあと思います。しかも司牧からこういう言葉が出るってところが新鮮ですね。

 いずれにしても、ここで紹介したのは本編のごく一部です。しかも対談のリズミカルな雰囲気はまったく紹介できていません。対談の文脈の中でこそ生きてくる言葉もあると思いますので、気になる方はぜひ、本書を手に取られたら良いかと思います。