2017年4月25日火曜日

クリスチャンの「終末」の扱い方・その3

 クリスチャンの「終末」の扱い方、3回目です。

 ところで本日4月25日は、北朝鮮がミサイルを発射するかもしれない、大変な事態になるかもしれない、と懸念された日だったようです。普段テレビを観ないので、知り合いに教えてもらって初めて知りました。若干テレビ局の煽りのような気もしますが。

 ともあれ、こういう状況になると、また終末信奉に熱心な皆さんが「これは終末の合図だ」とか「終末へのカウントダウンだ」とか言い出しそうです。でももう(私が知っているだけでも)何年も同じようなことをいろんな人たちが言い続けているので、カウントダウンなんてとっくにゼロを過ぎている気がするのですが。なぜそこまで繰り返すのか、そして「終末」にこだわるのか、ちょっと理解できません。

 また、本日もそろそろ終わりそうなので、とりあえず今日のところは無事に過ごせそうです。でもそれはそれで、こんなことを言い出す輩が出てきそうです。
「私がとりなし祈ったから、主が働かれて、危機が回避されたのだ」

「終末」にしても何にしても、聖書を利用すれば何とでも言えてしまうというのはこのことです。聖書は権威ある書物のはずですが、このように濫用することもできてしまうので、そのあたりは聖書を読む一人一人が注意しなければならないと私は思います。

 まあそれはともかく、今回は「携挙」にまつわる地雷について、書きます。

・「携挙が近い」と言ってしまう地雷

 キリスト教界隈の一部では、終末論信奉者が次々と生まれています。そして先人の失敗に学ぶことなく(学べばいいのに)、新しい信奉者たちが量産されていて、今日も「携挙が近い」と言っています。

 しかし、私が知っているだけでも、20年以上前に「携挙が近い」と言い切った有名牧師がいました。今はそんなこと「なかった」ような顔で牧師を続けていますが。
 また一部で有名な渡辺ナントカ女史も2、3年前に携挙騒動を起こして、ちょっと注目を集めました。でも今は(少なくとも今は)そういう発言は控えているようです。さすがに懲りたんじゃないでしょうか。

 そういう「有名人」たちが失敗しているにもかかわらず、終末信奉者、というか携挙信奉者が後を絶ちません。そして同じように「携挙が近い」「これは終末のサインだ」を繰り返しています。どうやら彼らは自分自身が失敗しないと、学ぶことができないようです。そしてその失敗を後進に伝えることができないようです。

 そもそもの話ですが、携挙の時期について「近い」「遠い」と言及すべきではないと思います。なぜならキリストご自身が、「その日は誰も知らない」と明言しているからです。たしかに「その前兆」の話をしていますが、同時に「惑わされないようにしなさい」とも話しています。だから「その日がいつなのか」という点を掘り下げても、あまり意味がないと思います(キリストご自身もそんなことは言っていません)。それよりむしろ「どうしたら惑わされないか」を考える方が、キリストの意向に沿うのではないでしょうか。

 この「携挙が近い」という主張は、前々回の記事の繰り返しになりますが、「その時その時の世界情勢に振り回されている」だけです。戦争とか大規模テロとか大災害とか、いかにも危機らしい危機が訪れると、「終末だ」「携挙が近い」と言い出すからです。でもそれは短絡的でしょう。そんな簡単に判断できるものであれば、「その日は誰も知らない」なんてキリストは言わなかったはずです。

 またキリストが「その日は誰も知らない」と言ったにもかかわらず、「いや、聖書を注意深く読めば携挙の日がわかるんだ。主は聖徒に何事も隠されないのだから」とか言って、独自の聖書解釈を構築する人もいます。その詳しい内容はいつか機会があれば紹介するかもしれませんが、要は論理の飛躍とか、言葉遊びの類です。

 そういう論理の飛躍はいくらでもできます。前述の渡辺ナントカ女史も「携挙の日」を特定する発言をしてしまいましたが、結局何も起こらないとなると、「主が携挙を思い直されたのです」「これは主の憐れみによるのです」「私には何故だかわかりません」みたいな、都合のいいことを言っていました。聖書っぽい表現を使えば、一応何とでも言えてしまうのです。

 まとめると、携挙を「近い」とか「遠い」とか言うべきでありません。そもそも「終末」も「携挙」も強調する必要がありません。強調してしまったら、それはキリスト教信仰でなく「終末信仰」です。もはや神もキリストも関係なくなってしまいます。と私は考えます。

・ある教会の話

「終末」を強調してしまったある教会の話をしましょう。

 そこはマトモに見える教会でしたが、いつの頃からか、終末信仰に傾いていきました。毎週語られる説教は終末関連ばかりになりました。「携挙」や「艱難時代」ばかりが語られました。そして「実際的な備えをすべきだ」という話になり、都心から遠く離れた地域に倉庫を借りて、そこに食糧など備蓄しはじめました。
 礼拝もだんだん(今思うと)気持ち悪いものになっていきました。信徒たちに徐々に厳しいルールが課せられるようになりました。ミーティングに遅れたり参加できなかったりするだけで叱責されました。また祈り方や祈りの文言にまで指導が入りました。そして何か失敗してしまうと「信仰が足りない」「悪魔に攻撃されている」「もっとしっかりしろ」と責められました。
 金銭感覚もおかしくなっていきました。「教会に必要だから」「礼拝に必要だから」「主が求めておられるから」という理由で高価な機材や楽器や何やかやがどんどん購入されていきました。「必要(お金)は主が満たして下さる」というのが合い言葉みたいになっていました。

 それで最終的にどうなったかと言うと、「終末」が来る前に教会が破綻しました。詳しく書きませんが、収集のつかない事態だけがあとに残りました。

「終末」を強調すると必ずその教会みたいになる、とは言いません。でもその危険は大いにあると思います。そしてこの教会は一つの教訓です。これを無駄にしてはいけないと私は思います。
 先人に学べない終末信奉者でなく、よく学ぶキリスト者であってほしい、と皆さんに願うばかりです。

2017年4月22日土曜日

クリスチャンの「終末」の扱い方(地雷にご用心)・その2

 クリスチャンの「終末」の扱い方、2回目です。
「終末」関連の記事を書くと、熱心な「終末信奉者」の方々から、あーだこーだ言われることが多いです。私がネガティブなことを書くからでしょうが、なんかムキーッて感じで、あまり論理的とは言えない(つまり感情的な)文句をぶつけられたりします。彼らは自分たちの信じている聖書解釈にケチをつけられると、よくわかりませんが攻撃的になってしまいますね。話し合おうとか歩み寄ろうとか、そういう寛容さが見られません(寛容でないクリスチャンって何だろう・・・)。
 そういう人たちは基本的に話が通じないので、私は相手にしません。

・「終末」について論じる理由

 私がこういった記事を書く理由は、上記のような「終末信奉者」を論破したいからではありません。そうでなく、それを盲信してしまっている人や、そういう教会やグループしか知らなくて集っている人や、集っているけれどどこか疑問を感じている人などに、「気づき」を提供するためです。聖書にはいろいろな解釈があって、いろいろな考え方があって、正解は一つではないんだ、ということを知ってもらいたいです。そして少しでも視野を広げてもらい、自分たちの信じていることだけが全てではないんだ、という当たり前のことに気づいてもらえたら、と願っています。
 だからバリバリの「終末信奉者」は、最初から相手にしていません。彼らに何を言っても無駄だからです。

 ただ誤解のないように書いておくと、私は「終末」を否定していません。私たちが生きている間に「終末」が訪れる可能性も否定していません。また「携挙」さえも否定していません。
 しかしそれと同時に、「終末」が、私たちが一般的にイメージするような破滅的なもので「ない」という可能性と、携挙なんて「ない」という可能性も、否定していません。

 つまり私は、(そういう立場が許されるかどうかわかりませんが)聖書解釈においてできるだけニュートラルな立場でいたいと考えています。解釈が分かれている事柄については、明確にどちらか一方の立場に立つのでなく、いろいろな可能性をそのまま残しておきたいのです。調子がいいのかもしれませんが、現段階で自分自身がはっきり確信できていないことは、ちょっと保留にしておきたい、という感じです。

 それに正直なところ、「終末」がどうとか「携挙」がどうとか、私にはどうでもいいことです。何故なら、たとえ「終末」が近いとしても、「携挙」が近いとしても、私たちは今まで通り生活すべきだからです。今日も他者にできるだけの愛を示すべきだからです。それこそがキリストの願いだからです。「終末」とか「携挙」とか騒いで聖書を捏ねくり回すより、聖書を机の上に放り出して、誰かに会いに行く方が良いと私は思っています。

 明日世界が終わるとしても、今日リンゴの木を植えよう・・・。
 みたいな感覚です。キザでしたね。すみません(笑)。
(ちなみにこんなことを書いていたちょうどその時、当ブログ宛に同じような内容のコメントをいただきました。いやビックリしました。)

 もちろん、聖書をまったく読まなくていい、という話ではありません。ちゃんと勉強はすべきです。ただ、バランスが必要だと思うのです。

・「終末」よりも大切なこと

「終末」に関するキリストのシンプルな語りかけは、「惑わされないようにしなさい」の一言に尽きると私は信じています。つまり惑わす人が沢山いるということです。だからいろいろな「教え」に振り回されたり、右往左往したりしてしまうかもしれません。だからこそ「終末」とか「携挙」とかに心を奪われるのでなく、ただシンプルに、「キリストが何と言っているか」に注目したら良いと思います。そしてキリストの語りかけは、すごくシンプルなのです。

 たとえば単純に「キリストが生きたように生きたい」と願うならば、難解な神学や論議なんて全然必要ありません(全然というのは言い過ぎかもしれませんが)。困っていそうな人に声を掛けたり、疎遠になっている友人に電話したり、隣にいる人に何気なく話しかけてみたり、そいうようなことが、キリストの生き様を真似ることだからです。他者を省みないで「終末ガー」とか「携挙ガー」とかやってる人たちは自分たちを「聖書的」と思い込んでいるようですが、私に言わせれば「とんだ勘違い」なだけです。

 もちろん、神学的研究が必要なのも認めますけれども。

 何故私がこういう記事を書くかと言うと、「終末」や「携挙」を問題視しているからではありません。「終末」や「携挙」そのものはほとんど問題ではありません。そうでなく、「終末」や「携挙」を強調しすぎたり、確実なものと断定したり、何か素晴らしいもののように飾り付けたり、それを使って人を不安にさせたり、というような「扱い方」に、問題があるのです。そして私はそのことについて「だけ」書いているのです。

 前置きが長くなりました。
 では今回も、クリスチャンが「終末」を扱ううえで地雷になりそうな事柄について、紹介してみたいと思います。どうぞ。

・「推論」と「断定」の混同という地雷

 おそらく福音派・聖霊派系のクリスチャンの方々は、「終末」と聞くと、「キリストが語られた、いつか起こる世界の終り」や「将来的な患難時代の到来」などをイメージすると思います。私もそうでした。しかしちょっと視野を広げてみるならば、そう単純に割り切れない話であることに気づきます。たとえば、マタイ24章に書かれている「エルサレムの破壊」は、西暦70年に実際に起こっています。「石が崩されずに積まれたまま残ることはない」というキリストの言葉通りのことが起こり、エルサレムは破壊され、ユダヤ人は離散していきました。
 ではキリストはマタイ24章において、「2000年以上先の世界の終わり」について預言したのでしょうか? あるいは「西暦70年に起こること」を預言したのでしょうか? これは断定できない疑問じゃないかと思います。
 ということは、「この世界の終わりの日」と、キリストが24章で語られたこととは、必ずしも同一ではないかもしれない、ということです。少なくとも、その可能性があります。エルサレムが1世紀に破壊されたのは事実なのですから。

 だから従来私たち(福音派・聖霊派系)が考えてきた「終末」観は、必ずしも(部分的にでも)正しくないのかもしれません。そう考えてみる柔軟性が必要だと私は思います。

 また「携挙」という言葉一つとっても、「患難前携挙説」とか「患難後携挙説」とか考え方が分かれています。それに「患難前携挙説」が注目され出したのは、西暦3世紀頃のことです。ということは、キリストも初代教会も「患難前携挙説」を支持していたわけではないことになります。
 だから「携挙」自体が、けっこうあやふやな要素を持っている話なのです。

 というようなわけで、「終末」には「推論」が多少なりとも含まれているわけです。はっきり断定できない部分があります。しかし「終末信奉者」の皆さんに言わせると、彼らの主張は「ことごとく正しい」ということになります。ある時点でイスラエルが奇襲されて、でも奇跡的に守られて、それから携挙があって、患難時代がきて、「反キリスト」が徐々に頭角を現し、3年半の時点でなんらかの契約が反故されて、大患難がやってきて、ラッパやら鉢やら巻物やらアルマゲドンやらがあって、ものすごいクライマックス(?)の末にキリストの再臨があって・・・(多少の順序の違いはあるでしょうが)みたいなストーリーが、「紛れもない事実」「この通りのことが起こる」「だから備えよ」みたいに語られるのです(ほとんど『レフトビハインド』のストーリーラインなのですが)。

 つまり、「推論」であるはずの部分までもが、「断定」となってしまっています。なぜそんな断定ができるのでしょう? 聖書に明確な根拠があるのではありません。彼ら自身が「そうだと信じたいから」です。

・「敵」と「悪」の混同という地雷

 おそらく「終末信奉者」の皆さんからしたら、私は懐疑主義者であって、「敵」なのでしょう。
 でも、これまでの文章からわかると思うのですが、私は「イロイロな可能性があるから断定するのは危険です」と言いたいに過ぎません。だから私は厳密に言うと「敵」ではありません。同じキリスト教徒なだけです。

 でも彼らにかかると、私は「敵」のようです。そしてそれだけでなく、「サタンの手先」であり、「サタンに心を乗っ取られている」ようです。
 またそれは私だけでなく、彼らの主張に反対する人は誰でも「サタンの手先」であり、「サタンに操られている人」になってしまうようです。しかしそれは、いささか一方的というものではないでしょうか?

 そういうことを言いだすと、未信者の大半は「サタンの手先」でしょうし、ある教派のクリスチャンなんか根こそぎ「サタンの手先」になってしまいます。また彼らと同じグループの人間であっても、ちょっと違ったことを言えば「サタンに操られている」となってしまいます。最後は(突き詰めて考えれば)自分以外はみんな「サタンの手先」になりかねません。

 要するに、自分(たち)に同意しない人間はみな「敵」であり「悪」なのです。彼らにとっては。
 冒頭で、「そういう人たちは基本的に話が通じないので、私は相手にしません」と書いた理由が、おわかりいただけたでしょうか。

・「憐れみ」より「生け贄」を好むという地雷

  主が言われたのは、「わたしは憐れみは好むが、生け贄は好まない」です。意訳すると、「厳密なルールや宗教的行為に勤しむより、困っている人を助ける方が勝っている」という感じになります。
 これはまさに私が冒頭から言っていることです。「終末」や「携挙」と騒ぐより、人に会いに行く方が良い、と。

 でも「終末信奉者」の皆さんにかかると、これが逆転して、「憐れみ」より「生け贄」の方が大切になってしまうようです。終末関連の議論になった時の、彼らの怒りようや頑固さや、攻撃的な態度を見ると、そうとしか思えません。人に寛容を示すより、自分の主張や自分の聖書研究の方が大切なようです。

「聖書にこう書いてある!」と聖書をブンブン振り回す人と、困っている時に優しく助けてくれる人と、どちらが「キリスト教徒」にふさわしいでしょう。ってそんなこと尋ねるまでもないことなんですが。

2017年4月19日水曜日

クリスチャンの「終末」の扱い方(地雷にご用心)

 時々書いているテーマですが、クリスチャンと「終末」の関係について、改めて考えてみたいと思います。

 聖書には終末、つまり「この世の終わり」と読めるような箇所があります。黙示録はほぼその手の話に終始している感があります。他にもマタイによる福音書やパウロのいくつかの書簡、旧約聖書のダニエル書やエゼキエル書、いくつかの小預言書にも「終末」に関する記述があります(厳密に挙げればもうちょっとあるでしょうが)。

 これだけ言及されているのですから、この世界、まさに私たちが住んでいるこの世界は、いつの日にか「終末」を迎えることになるのでしょう・・・と、考えるのは、ちょっと浅はかかもしれません。立場によって、その「終末」は、歴史の中で既に通過した出来事だと解釈されることもあるからです。もちろんそうでなく「これから終末がくる」と考える立場もあるのですが。
 つまり、いくつか解釈があるのですね。

 そのどれが正しいのか、というのをここで論じようとは思いません。大変なことになるでしょうから。それに私は神学者でも研究者でもありませんから、そこまで詳しく知っているわけでもありません。

 ただ私は長くクリスチャンをやりながら、いろいろ見てきました。当然ながら良いことばかりではありませんでした。あちゃーと思うことも多々ありました。
 そのへんの経験から、「これだけは言える」というのがいくつかあります。今回はちょっとそういうのを紹介しようかと思います。何かの参考になれば幸いです。

・「終末」という地雷

 まずはじめに注意したいのは、「終末」話はクリスチャンにとってけっこう地雷だ、ということです。

 マトモに見えた牧師や教会、クリスチャングループが、いつの頃からか「終末」を強調しだすと、あれよあれよと言う間に、おかしなことになっていくのでした。そういうのを何度も見てきました。残念ながら例外がありません。実体験として、「終末」を強調しだした人たち(終末に取り憑かれたと言ってもいいかもしれません)は、遅かれ早かれ何らかの問題を起こしています。ひどくなると刑事事件に発展する場合もあります。神社仏閣に油を撒いて問題になったグループなんかはその亜種ですね。本人たちは至って真面目なのですが、はたから見れば常軌を逸しているわけです。

「終末」を強調しだす背景や動機に共通するのは、「自分たちは特別な存在だ」みたいな優越感です。
「特別な啓示が与えられた」
「真理に開かれた」
「御霊に感じた」
「悟る力が与えられた」
 など表現はイロイロですが、根っこは同じです。「自分(たち)は、他の人たちが知らない(知ることのできない)ことを知っている」という思い上がりみたいなものが、多少の差はあれ存在するのです。

 中でも特に「携挙」を言い出すと、地雷度が格段に上がります。「まもなく終末がくる!」「携挙に備えよ!」とか言い出したら、黄色信号をとっくに通り越して赤信号です。
 実際、ある人たちは「どうせ携挙されるから」という理由で年金を一円も払っていなかったり、財産の大部分を教会に寄付していたり、逆に何十年ローンを組んでマンションを(どうせ全部返済しなくていいんだという発想で)買っていたりしました。
 ちなみにそういう彼らは、今や「終末」も「携挙」も一切言いません。かつての自らの言動も「なかったこと」にしたがっています。なんででしょう?

・世界情勢に振り回されるという地雷

 次に、その時その時の世界情勢をみて、「これは聖書の◯◯という預言の成就だ!」みたいな主張をするのも地雷です。

 何年か前、イスラエルとガザ地区の戦闘が激化したことがあります。覚えている方も多いでしょう。あれを見て、「これはいよいよ終末だ」「一目瞭然だ」「ついにカウントダウンが始まった!」とか言う人たち(クリスチャン)がいました。
 でもその後しばらくして、戦闘は鎮静化しました。すでに何年も経っています。「携挙」や「終末」は起きたのでしょうか。カウントダウンはどうなったのでしょうか。

 実はこの手の話は、枚挙に暇がありません。東日本大震災の時も、911の時も、1999年末も、イスラエル建国(再建)の時も「終末だー」「カウンドダウンだー」「携挙に備えよー」みたいな騒ぎがありました。おそらく歴史の中には、似たような事例が沢山あることでしょう。
 でも、悉く間違っていました。

 それらに共通するのは、「その時その時の世界情勢をみて安易に判断してしまった」という点です。本人たちは自信満々に「神に語られた」「御霊に感じた」「霊において確信がきた」みたいなことを言っていたのですが。
 でも「神に語られた」と言っておいて実現しなかったのですから、簡単に言うと、彼らはニセ預言者なのですけれどね。

 はっきり書きますが、その時その時の世界情勢から何かを判断することはできません。単に振り回されているだけです。上に挙げたような数々の事例がそれを証明しています。人間には「それらしく見えること」が沢山あるのです。でも何一つ確証を持って言えることはありません。あるいは確証をもって何かを言うのが自由だとして、それが外れた時の責任は決して小さくありません。

 今も時々SNSで「エゼキエルの預言ガー」とか言っているのを見ますが、過去の失敗事例から少しは学んでほしいなと思います。同じことを延々繰り返しているのに気づかないのは、もはや「救いようがない」という感じです。クリスチャンだから「救われている」はずなのですが(苦笑)。

・何かと「イスラエル」を持ち出すという地雷

 3つ目は、終末と関連して何かと「イスラエル」を持ち出す、という地雷です。
 殊更にイスラエルとの繋がりを強調し、たとえば竪琴とか角笛とかを礼拝に取り入れたり、ユダヤ暦の各種の祭を祝ったり、「ヘブル語聖書研究」にハマったり、ユダヤ文化の真似事をしたり、といった感じです。その背景には「終末だから」「今こそイスラエルが重要になる」みたいな考え方があります。

 念のため書いておきますが、べつにイスラエルが悪いわけではありません。ついでに書くと「終末」が悪いのでもありません。どちらかと言うと、それらの「扱い方」に問題が起きやすいのですね。

 どんなことかと言うと、終わりの時代にイスラエルと繋がっている自分たちは本物だ、悟っているんだ、これは他の人たちにはわからないんだ、という考え方になることです。あるいは竪琴や角笛を使うのが本物の礼拝なんだ、ユダヤ暦に沿って生きるのが真のクリスチャンなんだ、ヘブル語で祈ったり歌ったりするのが次の霊的ステップなんだ、みたいな、言うなれば「イスラエル至上主義」に陥っていくことです。

 イスラエルを強調しだすと、簡単にそこに陥ってしまいます。たぶんそれは人間の弱さなのでしょう。

・原語原典がわかったところで

 というわけで、クリスチャンには「終末」「世界情勢」「イスラエル」という3つの地雷があるわけです。
 繰り返しますが、それら一つ一つが悪いのではありません。そこにハマり込んでおかしなことになった人たちがいますよ、少なくありませんよ、というだけのお話です。

 その意味で、それらは「偶像」になりえると思います。心の中で「これぞ素晴らしいもの」となってしまうのです。そしていつの間にか排他的・独善的となり、優越感と自信に満ちて、人の話を聞けなくなってしまうのです。

 ヘブル語研究をバカにするつもりも否定するつもりもありません。むしろそれは有用でさえあるでしょう。でも原語(原典)の意味がわかる、というのを殊更に特別視すると、またおかしなところに陥ってしまいます。

 キリストの教えはシンプルなはずです。その命令を行ううえで、必ずしも言語や原典の「特別な」意味を知っている必要はありません。特別な意味や深い意味がわかったところで、それを実行する能力とは関係ないからです。
 原語原典の意味がわからなければキリストの命令がわからない、実行できない、という人は、たとえそれらが完璧にわかったところで何一つできないだろうと私は思います。

2017年4月14日金曜日

【書評】『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』・その4

 アラン・A・ブラッシュ著『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』の書評として、性的マイノリティとキリスト教信仰について書いています。4回目です。

・個人の物語

 前回も紹介しましたが、本書の巻末に付録という形で、性的マイノリティの当事者の方々の体験談が掲載されています。「三つの個人的な物語」というタイトルで、3人の方がそれぞれ語っています。
 前回までに書いた通り、本書は、性的マイノリティが「罪」でないことを(少なくとも聖書がそれについて何も言及していないことを)論理的に考察しています。この考察だけでも読むに値します。今なお「同性愛=罪」だと単純に考えるクリスチャンが多いからです。しかし私が本書でもっとも感銘を受けたのは、実は考察部分でなく、この「個人的な物語」の部分です。ある人たちの個人的な体験、生活、人生、苦悩、葛藤、そして希望が、短い文章ながら、ダイレクトに伝わってきたからです。論理的な考察と同じくらい、あるいはそれ以上の説得力をもって、私の胸に響きました。

 やはり人の心を打つのは、「人の物語」じゃないかなと思います。どれだけ理屈を積み上げても全く伝わらないことがありますが、それはやはり感情がついて行けないからではないでしょうか。人間は何だかんだ言って、論理より感情で動く生き物だと思います。感情が論理をすっ飛ばすこともありますから(それはそれで危険なことなのですが)。
 いずれにせよ、個人的なストーリーが語られることで、それまで考察されてきたことが、一般論としてでなく、グッと親近感をもって迫ってきます。
「同性愛=罪」と考えるクリスチャンの方々は、もしかしたら性的マイノリティの方々と触れ合ったことがないのかもしれません。もし個人的に知っていれば、つまり生身の人間として接したことがあれば、簡単に「罪だ」とか何だとか、言えなくなる気がします。

・私個人の物語

 私個人の話をします。

 私は高校生の頃から、「知らずにつるんでいた友人がゲイだった」ということを何度か経験してきました。本人が教えてくれたり、何かのキッカケで気づいたり、何となくわかったり、その経緯はそれぞれでしたけれど。一番初めの時は若干驚いた覚えがありますが、2回目以降は「うん、だから何」という感じでした。私にとってゲイの男性は、わりと身近な存在でした。

 彼らはみなごく平凡な男子でした。音楽やマンガやゲームが好きで、美味しい食べ物や面白い話が好きで、学校の授業や宿題はあまり好きでなく、放課後になれば遊びに出掛けました。クリスマスなどのイベント時は集まってケーキを食べました。彼らがゲイだろうが何だろうが私には関係ありませんでした。長所も短所も含めて私の友達だったからです。時々ケンカもしました

 性的マイノリティの方々が差別的な扱いを受けている、というのを知ったのは、実はもっと後のことです。でも差別される理由が全くわかりませんでした。むしろ私は、当時流行った栗本薫氏の『終わりのないラブソング』とか、魔夜峰央氏の『パタリロ』とかの影響もあってか、同性愛指向をどこか「きれいなもの」「特別なもの」と捉えていたのです。だから、私自身は異性愛指向なので異性しか恋愛対象になりませんでしたが、「世の中には同性愛というカタチの愛もある」ということを、誰に教わるでもなく理解していました。

 大人になると、今度はクリスチャンのゲイ男性と知り合いました。知り合って何年か経ってから、彼がゲイであると知りました。でも当然のごとく、私たちの関係は何一つ変わりませんでした(少なくとも私の方はそう考えています)。

 でも私たちのいた教会はペンテコステ系でした。ペンテコステ系と言っても様々なのですが、おそらく概ねの傾向として「同性愛=罪」と考える教派です。だから当然ながら、彼が教会内で自分の性的指向を公表することはありませんでした。そこの牧師は「同性愛者は癒されなければならない」と平気で主張するクチだったので、彼は牧師とも距離を置いていました。

 おそらく彼は教会に居づらかっただろうし、人知れず苦悩していたと思います。自分の「あるがまま」を頭から否定され、「癒されなければならない=異常な状態」とされたのですから。彼がどんな心境だったか、想像さえできません。決して公に責められたり、貶められたりしたわけではありませんでした。けれど一度カミングアウトしてしまったら、どんな扱いを受けるかわかりません。それは恐怖だったと思います。

 ところでこの「あるがまま」には、2種類あると思います。変更可能なことと、変更不可能なことの2つです。
 たとえばですが、朝が弱くて寝坊しがちだとか、ついつい食べ過ぎてしまうとか、学生なのに学習習慣が身につかないとか、そういうのは(基本的には個人の自由だと思いますが)ある程度努力したり、自制したりすることで、変えられます。
 でも、たとえば生えてくる髪の色を変えたいとか、瞳の色を根本的に変えたいとか、肺呼吸でなくエラ呼吸がしたいとか、そういうのはどう考えても不可能なわけです。
 後者の変更不可能なものを「変えろ」と言われたら、あなたならどう感じるでしょう。たとえば「たった今から水の中で呼吸して生きろ」とか命じられたら、理不尽を感じるのではないでしょうか。
 同性愛者指向の人に「おかしいから異性愛者になれ」と言うのも、それと同じです。それはその人の「あるがまま」であって、いくら努力したところで、変わるものではないからです。異性愛者であるあなたが、「異性愛なんて異常だ。気持ち悪い」とか言われるのを想像してみて下さい。少しは実感できると思います。

・さらに私個人の物語

 ところで私は「左利き」です。左手で字を書いていると、今は「サウスポー」と言われますが、昔は「ギッチョ」と言われました。ちなみに未だに「ギッチョ」という言葉の意味がわかりません(笑)。

 私が小学生の頃、まだ左利きは異常だとか、おかしいとか言われていました。そして「右利き」になるよう、矯正を強制されました(ジョークではありません)。今そんなことが行われたらSNSで大炎上しそうですが、当時は時代が違いました。左利きは明確に差別されていたのです。

 私は小5の時の担任教師から、そのような矯正を強いられました。そして「正義感に駆られた」何人かの同級生からも矯正の圧力を受けました。ある時、教師や同級生たちに囲まれて、「左手で書くな。右手で書け」と強い口調で言われたことがあります。辛かったですね。そんな風にある期間、私は自分の「あるがまま」を否定され続けました。

 でもその経験を通して、私は「あるがままの姿、変更できないありようを差別してはならない」ということを学びました。実はそれは当たり前のことなのですが。でもなかなか理解しづらいものなのかもしれません。

 左利きである私を責めた同級生たちは、みな「右利き」でした。彼らはバカではなく、どちらかと言うと成績の良い方でした。でも頭の良さは関係ないようです。マジョリティは、マイノリティの立場を理解しづらいようです。だから寄ってたかったマイノリティをいたぶることができるのです。

 これは左利きだけの話でなく、性的マイノリティにも、いろいろな疾患や障害にも、ある地域では人種にも、その他のあらゆる差別を引き起こす事柄にも、同様に言えることです。少数派は不利となりやすく、立場が弱くなりやすく、理解されにくく、何かあると攻撃されやすいのです。

 ちなみに後日談ですが、私は結局「左利き」を貫き通しました。訓練すれば右手でも書けるようになったとは思います。しかし私は、自分が左利きであることを、生まれつきのものであり、自然なありようであり、変える必要のないものだと、感覚的に理解していました。それに誰かに何かを強制されるのが大嫌いでした。だから担任が鬼の形相で声を張り上げても、右手で書こうなんてこれっぽっちも考えませんでした。
 だいいち、なんで左手で書いてはいけないの? その問いに、誰もまともに答えられませんでした。実は彼ら自身が一番わかっていなかったのです。

 というわけで、私は今でも左手で字を書き、ボールを投げ、箸やスプーンを持ちます。かと言って右利きの人を差別しません。それはそれで素晴らしい能力だと思いますから。

・「同性愛者=罪」と簡単に言ってのける人は

 話を戻します。
 性的マイノリティも、単に少数であるというだけで、「あるがまま」の、自然な、変更する必要のない、その人にとって「本来の」姿なのです。まだまだ奇異の目で見られたり、差別的に扱われたりするのが現実だと思いますが、そんなこと気にしないで生きられるのが本当なのです。誰にも否定したり矯正したりする権利はありません。

 冒頭にも書いたように、性的マイノリティについて論じるのと、性的マイノリティの方と個人的に接するのとは、大きく違います。
 教会の中で、自分たちの物差しだけで聖書を読み、単なるイメージだけで「同性愛者なんて嘆かわしい」と言っている人たちには、何も論じる資格はないと私は思います。当事者と個人的にかかわることで、初めて見えてくるものがあるからです。

 そういうクリスチャンが簡単に「罪だ」と断じる性的マイノリティの人にも、(当然ながら)それぞれ人生があり、日々の生活があり、家族があり、仕事や学業があり、希望や目標があります。誰かを愛したり苦しんだり、喜んだり悲しんだりします。そしてその中のある人たちは、神様を信じていて、教会で礼拝を捧げ、祈りを捧げ、たぶんいろいろ葛藤しながら、クリスチャンとして生きているのです。

 そういう人たちを簡単に「罪人だ」「嘆かわしい」と断じるあなたは、いったい何者なのでしょう。あなたは「罪人」ではないのでしょうか? あなたは嘆かわしい存在ではないのでしょうか?

「同性愛者=罪」と、いとも簡単に言ってのける人を見ると、私はいつもそんな感想を持ちます。私のことを「ギッチョ」と呼んだ人たちのことを、チラッと思い出しながら。

2017年4月9日日曜日

【書評】『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』・その3

 アラン・A・ブラッシュ著『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』の書評として、性的マイノリティとキリスト教信仰について書いています。3回目です。

 前回は「同性愛=罪」とする主張の、聖書的根拠について書きました。
 しかし根拠と言っても、実情は「選択的」な聖書の利用であって、「神の命令」を意図的に取捨選択している、というものでした。「選択的」と言うのは、たとえば命令が10あるとして、その中の1つにだけ執着し、あとの9は無視する、みたいな感じです。各命令の有効・無効を勝手に決めているのですね。
 それは残念ながら、「神の命令」を守っているとは言えません。むしろないがしろにしていると言うべきでしょう。

 なので「同性愛=罪」の根拠が、聖書に明記されている、とも言えません。明記されているかのように誤読・誤解釈されている、ということです。

 というあたりが、前回のまとめになります。

・聖書中に反映されていない、現代的な「性」の多様性

 現在、キリスト教界でなく一般社会でですが、性的マイノリティに関する知識が徐々に普及されつつある、と私は認識しています。同性パートナー(事実上の同性婚)を法的に認める動きが一部の地方行政に見られるのも、その一端でしょう。映画やドラマなどの創作物でも、性的マイノリティをテーマとしたものが増えています。LGBTであることをカミングアウトする著名人も少なくありません。

 またそれらの動きと関連しているのかどうかわかりませんが、いわゆる性的マイノリティで知られるLGBTとは別に、「性分化疾患」の存在にも光が当てられるようになりました。これは内外生殖器や性染色体の何らかの障害を指すものですが、やはり一部で、ジェンダーの混乱(あるいは不明瞭)が見られるようです。これはLGBTと混同されがちですが、根本的には違うものと考えなければなりません(この疾患については別の機会に書ければと思います)。いずれにせよ、様々な性の在り方(障害によるものも含む)が認知されていくのは、良いことではないでしょうか。

 このように性の在り方、あるいは性的指向は、実に多種多様になっているのが実態なわけです。単純に「男か女か」で済む話でなく、「異性愛か同性愛か」で済む話でもありません。
 それは最近になって増えてきた、というわけではないはずです。はるか昔から存在していたものが、ようやく(正しく)認識されてきた、と言うべきでしょう。だから私たちは、(前回も書いたように)柔軟性をもって、いろいろな知識を広く得ていくべきだと思います。

 聖書が書かれた時代には、当然ながら「性的マイノリティ」なんて概念はなく、LGBTも性分化疾患も知られていませんでした。だからそれらに対する言及も配慮も、聖書中にはないわけです。
 そうであるなら、聖書に書かれている内容、特に性に関する内容は、「それが実際に何を意味しているのか」「何を意図して書かれたのか」といった点で慎重に検討されるべきです。
 単純に考えて、聖書が執筆された時代に認知されていなかった事柄、たとえばLGBTが、聖書に書かれているはずがありません。だからある聖句を挙げて「これはLGBTを禁止している」と指摘するの、そもそもおかしな話ではないでしょうか。それは聖書記者の意図を勝手に憶測したり、意図を付け足したりするのと同じような気がします。

 現代を生きる私たちと、聖書記者たちとの間には、約二千年の文化的・歴史的・科学的なギャップがあります。その広大なギャップを無視してしまったら、いくら「字義通り」とか「聖書のみ」とか言っても、結局のところ、その意図を履き違えてしまうだけではないでしょうか。

・一部の教会で語られる「同性愛神話」

 本書の巻末に、付録として、性的マイノリティの方々の個人的な体験談が掲載されています。その中で目を引いたのが、ある同性カップルが体験した「最も深刻な嫌がらせ」についてでした。
 いったいどんな人が、同性カップルをそこまで憎むのでしょうか。実はそれは、同じ信仰を持つはずのクリスチャンたちでした。クリスチャンの同性カップルを最も迫害したのは、未信者や無神論者や他宗教の信者たちではなく、同じクリスチャンたちだったのです。

 それがどんな嫌がらせだったのかは書かれていませんが、性的マイノリティを迫害するクリスチャン(教会)は、残念ながら珍しくありません。前回書いたような「同性愛=罪」と断定している教会には、いわゆる「同性愛嫌悪」が根強く残っているからです。

 そのような教会では、いくつかの「同性愛神話」が、今もまことしやかに語られています。2つの神話を紹介してみましょう。

神話1「同性愛は霊的な病気なのだ」

 ある牧師らは、性的マイノリティを「霊的病気」だと言います。はじめは「正常」だったのに、幼少期に受けた心の傷や、あるいは何かの罪の結果、「同性を愛するという異常な状態になってしまった」と言うのです。だから「同性愛者は癒されなければならない」みたいなことを主張します。そして集中的な祈祷とか、矯正キャンプ(?)とか、インナーヒーリングとかを勧めるのです。
 しかしそのような「治療」で「治った」という性的マイノリティの方など、聞いたことがありません。もし「同性を愛していた人が異性を愛するようになった」としたら、それは(ブラッシュ氏の言葉を借りるなら)「はじめからバイセクシャルだった」というだけです。

 現代においては、同性愛指向は生まれつきのものであり、本人の選択ではない、というのことが判明しています。
 ではなぜ同性愛指向になったのか? と尋ねるのは、ナンセンスです。それは「あなたはなぜ異性愛者なのですか?」という質問と同じだからです。理由はわかりまんが、そのように造られたのであって、本人の意思や希望や、環境や生育歴は関与していないのです。

 またどんな「傷」を受けようが、あるいはどんな「罪」を犯そうが、人生の途中でその性的指向が変更されるということはありません。もし異性愛者が何らかの「傷」によって同性愛者に変わるとしたら、現在異性愛者であるあなたも、将来同性愛者になるかもしれません。あなたが「罪だ」と断定する同性愛者に、あなた自身がなるのです。
 でもそんなことが考えられるでしょうか。いったいどんな「傷」を負ったら、そんなことが起こるのでしょうか。

 さらに、もし「異性愛者が何らかの傷によって同性愛者になった」のだとしたら、それは本人の落ち度ではないのだから、罪ではないでしょう。憐れまれるべきであって、断罪されるべきではない、という話になるはずです。
 そのへんにも、「同性愛=罪」の矛盾があるように思います。

神話2「同性愛者は必ず性的逸脱行為に走る」

 これは、「同性愛者は小児性愛を好む」とか、「同性愛者は獣姦を好む」とか、その他のあらゆる性的逸脱行為を「同性愛者だから好むんだ」というような話です。
 しかし当然ながら、そんな根拠はどこにもありません。むしろ小児性愛に限って言うならば、それは異性愛者の方にこそ多いのです。

 一般的に逸脱行為を好まないのは、異性愛者も同性愛者も同じです。同性愛者だからといって何か特別な(否定的な)趣味や嗜好がある訳ではありません。

 にもかかわらず、このような神話がまことしやかに語られるのは、おそらく同性愛指向が、旧約聖書のソドムとゴモラの(悪い)イメージと結びついてしまっているからだと思います。
 前回少し触れたように、ソドムとゴモラは「同性愛者が沢山いたから」という理由で罰せられたのではありません。来訪者を集団レイプしようとした、その暴力性の方がよほど大きな問題だったわけです。また詳しい記述はありませんが、その他の様々な罪(悪行)の累積があったはずです。繰り返しますが、「同性愛者が沢山いたから罰せられた」というのは論理の飛躍でしかありません。

 しかしその手の教会では、こんなふうに考えられています。

「ソドムは同性愛が蔓延していたから罰せられたんだ」
「またソドムは様々な悪行に満ちていた」
「同性愛者どもは様々な悪行を好む奴らだ」

 というわけで、「同性愛=あらゆる性的逸脱行為の集合体」みたいなイメージが出来上がってしまうのだと思います。でもそれはまったく事実に反しています。

・今回のまとめと次回の予告

 今回は、「性的マイノリティという概念自体が聖書には記述されていない」という点と、「まったく根拠のない同性愛神話が一部に広がっている」という点について考えてみました。皆さんは、どんな感想を持たれたでしょうか。
 さて次回は、少し個人的な話から、このテーマについてさらに掘り下げていきたいと考えています。それではまた。