2016年11月30日水曜日

キリスト教の、というか宗教の「伝道」について

■まず反省

 このところ個人的にしばらく忙しかった。久しぶりのブログ更新になってしまった。ずっと書きたかったけれど書けない状況だったのは、私自身つらかった。

 で、何事もなかったように書き始めるけれど、キリスト教の、というより宗教の「伝道」について。

■本日遭遇したある「伝道」風景

 本日、SNSにこんな投稿をしてみた。

天◯教の方々が路傍で読経(?)して伝道(?)してるのを見て思ったんだけど、自宗教を熱心に表現すると「あー宗教の人ね(遠い目)」と倦厭される。かと言って宗教っぽさを出さないで楽しげに何かを表現すると「なんか胡散臭い」と思われる。さてキリスト教の伝道とはいかに。」

 今日、駅前を歩いていると、天◯教の旗を掲げた数人の黒装束の男性が路傍に並んで立っていて、お経(?)のようなものを詠んでいた。彼らは笑顔のような真顔のような、よく読めない表情をしていた。私の知る限り、誰も見向きせず素通りしていた。当然ながら私も。

 正直なところ、それが「伝道」なのかどうかわからない。彼らの目的が何なのかわからない。もしかしたら路傍で読経(?)するのが修行の一環なのかもしれないし、あるいは読経(?)すること自体で何らかの満足感が得られるのかもしれない。べつに彼らは「伝道」なんて考えていなかったかもしれない。

 しかし路傍(しかも駅前)という公共の場所で、不特定多数の人々に見聞される形で自宗教の何か(この場合は読経のようなもの)を発信するのは、いわゆるキリスト教で言うところの「伝道」に近いものがあるだろう。あるいは「伝道」という形式でないにしても、自宗教の何かを衆人にアピールする意図があるはずだ。そうでないならわざわざ駅前に出てくる必要はなく、自宅や寺(?)に篭ってすればいいのだから。

 で、べつに天◯教の話がしたいわけではない。その様子から、「伝道」というものについて考えさせられた、という話がしたいのである。

■よくある「伝道」

 SNSへ投稿した上記の内容の通り、「伝道」とは、熱心にやればやるほど「あー宗教の人ね」と倦厭されやすくなると思う。しかしかと言って、宗教であることをオブラートに包んで楽しげな何かを演出すると、「胡散臭い」という印象を与えるだろう。そして事実、その「楽しげな何か」に引っかかって教会なり何なりに連れて行かれた人が結果的に「なんだ宗教かよ」と騙されたように感じる事例もあることから、「胡散臭い」のは印象でなく実態なんだと思う。

 よくクリスチャンの証で、「パーティだと言うので行ってみたらそこは教会でした」という下りがある。それは自分がクリスチャンになったキッカケを面白おかしく紹介しているだけだと思うから、決して悪い話ではないかもしれない。けれど、一歩まちがえれば詐欺とか嘘つきだとか言われかねない「伝道方法」がキリスト教会では割と普通に行われている、という事に他ならないだろう。関係者はよくよく注意した方がいいと私は思う。

 で、じゃあキリスト教の「伝道」ってどうしたらいいんだろう、というのが今日の本題。
 と言っても私に何か素晴らしい答えや解決方法があるわけではないので、期待しないでいただきたい(誰もしてないって)。
 ただ考え方においては言いたいことがある。「伝道」とはグイグイ押し付けるものでなく、またドラマチックに話を盛って感動させるものでもない。テクニックや方法論でもない。生身の自分の姿を見せるものだと思う。

■私個人の考え方

 グイグイ押し付けられて信者になった人は、自分も誰かにグイグイ押し付ける伝道方法を採用するだろう。ドラマチックな演出で信者になった人は、自分もドラマチックな演出にこだわるようになるだろう。テクニックや方法論で信者になった人は、やはりテクニックや方法論に走るようになるだろう。

 それらが決して悪いという話ではない。けれど、じゃあ果たして良いものかと問われたら、皆さんはどう考えるだろうか。
 私はそれらは「伝道」として上策だとは思わない。

 では私が提示したい「伝道」の考え方が何かと言うと、「生身の自分の姿を見せる」ことである。

 要は、「特に何もしない」ということ。あるいは「人に見られた状態でクリスチャンとして生きる(働く)」ということ。

 これは決して積極的な伝道方法ではないし、いろいろ反対意見もあるだろうけれど、一番堅実で現実的で(かつ常識的で)、結果的にわかりやすい方法ではないかと私は考えている。

 これは童話でたとえれば『太陽と北風』が当てはまると思う。誰かのコートを脱がせたかったら、力任せに脱がすより、自分から脱ぐように仕向けた方がラクだということ。
 あるいは日本神話でたとえれば、天の岩戸に閉じこもったアマテラスオオミカミの話。無理やり岩戸をこじ開けるのでなく、自分から出てくるように仕向ければいい、ということ。
 あるいはもっと単純に、現代社会におけるセールスの話。家々に訪問していらない商品を押し付けなければならないセールスマンと、黙っていても売れていく大人気商品を扱うセールスマンとで、どっちがラクか。客に買わせたかったらどちらの商品が良いのか。

「仕向ける」とか「ラク」とか、ちょっと不謹慎な表現を使ってしまったけれど、本質的なところは感じていただけただろうか。私たちクリスチャンの「伝道」の武器である「福音」は、私たち自身は至高の品だと信じているけれど(だからクリスチャンなのだ)、世界中の誰もがそう信じているのではない。力任せに押し付ければ信じるものではない。楽しげな装飾で正体を隠したらウソになる。

 それより、自分自身が心から「福音」を良いものと思っていて、それに従って生き、それに従って社会に仕えている、という姿を単純に見せる方が、一般社会の人々にはわかりやすく、ダイレクトに伝わるのではないだろうか。という話。

■むすび

 私が今日遭遇した天◯教の黒装束の男性たちにしても、その唱えるお経(?)より、彼らがどんな人間でどんな生き方をしているかの方が、私には興味がある。たとえば彼らが慈善活動とか、画期的で革新的な社会活動とかを熱心にしていたとしたら、私は彼らの話を聞きたいと思うだろう。彼らの方から来なくても、私の方から出向いて行って話を聞きたいとさえ思うかもしれない。

「伝道」とは本来そういうもんじゃないかな、というのが今日の私の個人的な感想なのであった。

2016年11月20日日曜日

クリスチャンの「優劣」?

 次のような某クリスチャンの発言をみて、どう思われるだろうか。

「自分が頑固になって信仰について話している時、御霊に導かれている、と感じます。
 その間の記憶が曖昧で、ふと我に返る、という経験をよくしますから」

  この方はどうやら、信仰について誰かと議論しているとき、いくらか恍惚状態(?)になっているようだ。そしてふと我に返ると、自分が何を話したのかよく覚えていない、ということがあるらしい。そしてそれを「御霊に導かれている」からだと結論づけている。聖霊が自分を通して語っている、と考えているのだろう。
 皆さんは、これをどう考えるだろうか。

 最初にことわっておくと、この発言者個人がどうこうという話ではない。これは一部、おもに聖霊派の牧師やクリスチャンに共通してみられる、ちょっと変わった傾向の1つである。その傾向を上記の発言が端的に現していると思ったので、取り上げてみた次第である。

・第一の問題点

 この発言に対して私の思うところを率直に書くならば、まず第一に、「話している間の記憶が曖昧になる=御霊に導かれて語っている」とする根拠がない、ということだ。
 記憶に残らないような曖昧な意識状態で話すことが、(たとえ信仰の話であろうが自分がクリスチャンであろうが)全て「神様からの言葉」だとはならない。もしなるなら、居酒屋で強い酩酊状態になってブツブツ言ってる酔客の皆さんや、手術後の半覚醒状態でとりとめのない言葉を呟いている患者さんたちも、「神様からの言葉」を代弁していることになる。あるいは精神症状からくる独語なんかも「神様からの言葉」になりかねない。「記憶が曖昧な状態」であるのは、どれも同じなのだから。

・第二の問題点

 第二の問題点は、「信仰についての自分の主張は正しい」と信じ込んでいる点にあると思う。だから「御霊に導かれている」と言い切ることができるのだ。クリスチャンどうしの議論であるはずなのに、自分だけが「聖霊に導かれて」いて、相手が「導かれて」いないとする根拠は、いったいどこにあるのか。
 そこにはたぶん、下記のような思考プロセスがあると思う。

①信仰について議論になるとき、御霊が自分の口を通して語られる。

②自分自身はその間の記憶が曖昧になっている。

③その間の自分の主張は「神の言葉」なのだ。

④それは「神の言葉」なのだから、間違っているはずがない。100%正しいのだ。

⑤自分の信仰についての主張は正しいのだ。

 という具合。
 しかし、これはいささか乱暴な論理であろう。まさに本人自身が言っている「頑固な主張」であり、相手の意見を聞く耳が一切ないものだと思う。自分の主張が正しいんだから黙って聞け、と言っているのと同じなのだから。神様を無理やり自分の側に付けて、正義の信仰者を気取っているように思える。こういう人と、どうやったら公平な議論ができるのだろうか。

 旧約はともかく新約を見てみると、「自分の舌を制御すること」が勧められている。つまり理性をもって、また知性をもって、個人個人が、何を語るべきかを制御することが勧められているのだ。「異言」にしても同じで、(現在も「異言」が存在すると仮定して)それをコントロールすることが求められている。「他の人が異言で語り出したらあなたは黙りなさい」という意味のことが書かれているから、「異言」も意識的に、秩序をもって語る種類のものであろう。

 つまり、クリスチャンは曖昧な意識状態で何かを語るものではない。自分の口から発することには責任を持たなければならない。何を話したのか覚えてないなんてことは(もちろん人間だれしもそういう時もあるだろうけれど)、極力あってはならないと私は思う。まして自分の信仰に関する話であるなら、尚更。

・第三の問題点

 上記の発言の第三の問題点は、体験主義に過ぎる、という点だと思う。
 「神が私を操り、私の口を通して語られた」というのは、なんとなく「信仰的」とか「霊的」とか感じるかもしれないけれど、いわゆる「霊媒」と同じだ。『エクソシスト』のようでもある。本人は「御霊に満たされた状態」を意識しているのかもしれないけれど、「御霊に満たされた状態=なにかに憑依された状態」ではないし、「意識が曖昧になった状態」でもない。聖霊に満たされようが何に満たされようが、何を語るべきで何を語るべきでないかを決めるのは自分だし、その責任をとるのも自分だ。仮にどんな「啓示」があったとしても、それを語るのは自分自身であって、「神様がそう語らせた。自分のせいじゃない」と言うことはできない。あくまで話すのは自分なのだから、神様に責任転嫁することはできない。

 また「霊媒」は神に忌み嫌われるべきものとして聖書に登場しているはずだ。その意味でも、「何かに憑かれたような状態」で話したことが神からのものだと肯定することはできないと思う。

 同じような現象について歴史的な実例(伝承)をみてみると、「恍惚状態になって預言しだした」人として、イスラム教の開祖であるムハンマドが挙げられる。彼は天使に啓示されて、キリストに代わる預言者として活動を始めた、とされている。それがキリスト教界の側から肯定されるものなのかどうかは、論じるまでもないだろう。
 それを考えても、「恍惚状態=御霊に導かれた状態」とは言えないと私は思う。

・クリスチャンの「優劣」?

 以上のように、この発言には、はじめから自分を神の側に立たせ、あるいは神を自分の側に立たせて、自分の正当性だけを主張して相手を退ける姿勢が見える。でもその正当性には何一つ根拠がない。だから痛いだけの発言なのだけれど、本人にもその仲間内にもそういう自覚はない。私はそういう態度は独り善がりな信仰でしかないと思う。

 もし自分の方が優れている、信仰に進んでいる、真理がわかっている、と思っていて、それが事実であるなら、そこまで頑なになって自己の正当性を主張する必要なんてない。むしろ自分より劣っている人たち、未熟な人たち、わかっていない人たちを思いやるべきだと思う。それが「優れている側」の役目であろう。意固地になって自分の信仰はどうだとか言い張るのは、それ自体が信仰的な未熟さを現しているような気がする。

  そしてそれ以前にそもそもの話、クリスチャンとしての「優劣」にこだわるのは、「人を自分より優れたものと思いなさい」というキリストの勧めに、思い切り反していると思うけれど?

2016年11月18日金曜日

キリスト教カルトと非カルトの境界線

 カルト化教会とそうでない教会の境界線はどこにあるのか。どこを越えたら「普通の」教会がカルト化教会になるのか。その変化のタイミングやキッカケは何なのか。そういうことがわかっていたら、あるいは教会のカルト化は防げるのかもしれない。という期待を込めて、今回はその点について考えてみたい。

 まず初めに明確にしておきたいのは、「普通の」教会とカルト化教会は地続きで繋がっているということだ。ある教会が初めからカルトで、そうでない教会には関係ない話、なのではない。初めはマトモだった(少なくともそう見えた)教会が、徐々に変質していくのである。しかもその変化は外部から見ても内部から見てもよくわからない。
 実際、カルト被害者に話を聞いても、「いつの間にあんなことになってしまったんだろう」というような話を聞く。だからその意味で、あらゆる教会、あらゆる牧師にカルト化の危険性があり、絶対大丈夫と保証することはできないと思う。
 もっとも、実際的にはその可能性がものすごく低い、ほとんどあり得ないという教会もあるだろうけれど。

■カルト化の危険因子3つ

 私が思うに、教会のカルト化の危険因子(リスクファクター)は3つである。この3つが揃うと、カルト化が一気に進行することがある。順番に紹介してみよう。

①教え、教義、聖書解釈の問題

 教えの誤りの(最近の)代表格を1つ挙げると、たとえば「繁栄の神学」がある。「繁栄の神学」とは、簡単に言えば、「クリスチャンは経済的に繁栄して社会的にも成功しなければならない」という信仰だ。物質的にも霊的にも祝福され、財産や地位や名誉を得、大いに繁栄し、その力でこの世を支配していくことが目標とされている。これはキリスト教っぽくカモフラージュされているけれど、いわゆる成功哲学の一種である。
 これはカルト化教会でよく採用されている信仰スタイルだ(キリスト教信仰ではない)。だから信徒たちは金銭的に搾取され、教会の利益のために無償で長時間働かされる。そしてその全てが「訓練」であり、「成長のため」であるとされる。

 もちろん「繁栄の神学=カルト化」ではない。カルト化教会は他にもユダヤ主義的だったり、神秘主義的だったりする。異言や預言や癒しなどを重視する体験主義的でもある。いろいろな教え(自己啓発ふくむ)の混合でもある。それら一つ一つの是非をここで論じることはできないけれど、それらはしばしばカルト化の温床として利用されている。

②教会リーダーの人間性の問題

 教会リーダー(多くは牧師)の人間性は、教会にとってきわめて重要である。リーダーがどんな性格傾向か、どんな気質か、どんな種類の弱さがあるか、どんな強味があるか、といったことが、ほとんど教会の運命を左右すると言っても過言ではない。もちろん教会政治の在り方(後述)によってリーダーの権限は変わるのだけれど、それでもリーダーの影響は大きい。

 ただ、人間性というのはなかなか見えてこない。ある程度、判断するのに期間を要するのがほとんどだ。性格的な欠点、弱さなどのネガティブな情報なら尚更である(牧師はプライドが高くなりやすいから、そういうネガティブなものは隠したくなる)。また牧師は弱さに陥っている時に助けを求めづらい。だから牧師が誘惑に陥りそうになっていたり、実際に陥ったりしていても、周囲にはほとんどわからない。糖尿病や高血圧症などの生活習慣病と同じで、症状が現れた時には病状はかなり進行してしまっている。

 実際、暴行や詐欺などの犯罪を犯してしまった牧師が今までにも沢山いたけれど、彼らが何の促しもキッカケもなく自ら罪を告白した、というケースは聞いたことがない。大抵は告発され、訴えられ、暴かれている。発覚してなお否認することもある。

 で、カルト化しやすいリーダーの性格傾向とは、ずばり「平気でウソをつく」という点だ。この「ウソ」とは、自分にとって不利な情報を隠すというだけでなく、物事をかなり誇大して言ったり、装飾したりするのも含んでいる。
 たとえば、自分にとって都合の悪い信徒を教会から追い出しておいて、皆には「彼は自分から去って行った。私は一生懸命止めたんだけど」みたいなこと言う。あるいは大企業の幹部とかどこかの政治家とかとちょっと挨拶しただけなのに、「○○さんとじっくり話して親交を深めることができた。強い繋がりができた」みたいなことを言う。自己顕示欲が強いと言ってもいいかもしれない。

③教会政治、意思決定プロセスの問題

 教会全体の意思決定をどのようなプロセスで進めるか、という点において極端にリーダーの権限が強いと、カルト化が進行しやすい。なぜならリーダー(牧師)の意向ばかりが反映され、それを止めるシステムが働かないからだ。仮に役員会があってそこで議決されるにしても、役員会自体が形骸化している場合や、ほとんど牧師の言いなりになっている場合もある。だから役員会があるから、長老たちがいるから、いろいろなミーティングをしているから、ということで安心はできない。実質的な意思決定がどこで成されるか、という点が重要になる。

 以上、教えの問題、リーダーの人間性の問題、教会政治の問題の3つが全部揃うと、その教会は遅かれ早かれ何らかの問題を起こし、あるいはカルト化していくと私は考える。たまたま別の何かの要因が重なってカルト化しないにしても、不健全であるのは間違いないと思う。

■では教会はいつカルト化するのか

 初めに書いたように、どの教会もカルト化と地続きで繋がっている。そしてその変化のタイミングは、外部から見ても内部から見てもわかりにくい。外部から見てわかりにくいのは、教会の内情がイマイチ見えないからだ。内部から見てわかりにくいのは、そこにドップリ浸かっていて本質的な変化が見えなくなっているからだ。 だから変化のタイミングはこれと断言できないかもしれない。

 しかし上記の3つの危険因子が揃ったかどうかは、ある程度客観的に測ることができるだろう。ある意味、そのタイミングがカルト化の始まりと言っていいかもしれない。

 もちろんこれらの因子が揃うかどうかは一信徒が決められることでなく、止めるのも難しいだろう。
 だから私が強調したいのは、信徒1人1人が積極的に、批評的に考えることである。牧師が言うから、リーダーが言うからと何でもハイハイ返事するべきではない。そこで思考停止してはいけない。「でも牧師に文句を言うなんて」と思うかもしれないけれど、べつに文句を言えという話ではない。牧師が言った〇〇は 本当にそうなんだろうか、違う見方や考え方はないのだろうか、それに対して自分の感覚や感情はどう感じているだろうか、心から納得しているだろうか、と、まずは考えることを勧めているのである。

 実際的な話、教会がカルト化するとしたら、それを信徒1人で止めるのは不可能に近い。カルト化するものはカルト化する。でもよくよく考えることは1人でもできるし、相談相手を探すこともできる。必要とあれば教会を離れることもできる。教会を守ることはできなくても、自分自身を守ることはできる。あるいは多くの信徒が「これはおかしい」と判断して教会を離れていくなら、教会として成り立たなくなり、結果的にカルト化を防げるかもしれない。

2016年11月15日火曜日

「終末信仰」について

 今回はキリスト教の「終末信仰」について、思うところを書いてみたい。

「世の終わりが近づいた」というのは新約聖書にあるキリストの言葉である。キリストはいわゆる「世の終わり」についても語っており、マタイ24章あたりにその詳細をみることができる(他にもあるので興味のある方は探してみたらいいと思う)。

 終末についてキリストが聖書中で明言しているのは、いつか世の終わりが訪れることと、キリストの再臨があることである(他にも聖書を俯瞰すると、終末には患難時代や千年王国が訪れると読むことができるけれど、そこにはいくつかの解釈があるので、「キリストが明言していること」としては紹介しない)。

 だからその意味において、私たちは「終末信仰」を持っておくべきだと思う。あるいはそこに期待をかけておくべきだ思う。つまり私は「終末信仰」そのものを否定する立場でない、ということを最初に断っておく。

 という前提のもとで書くけれど、昨今、一部の教会やクリスチャンの間で、ちょっと行き過ぎた「終末信仰」が語られているように思う。

■行き過ぎた「終末信仰」

 その端的な例を書くと、「◯年の◯月に携挙が起こると示されました」みたいな発言である。
 終末のタイミングは「誰も知らない」とキリスト自身が明言しているにもかかわらず、「いえ、忠実な聖徒には事前に示されるのです」みたいなことを彼らは主張する。そしてその◯年◯月に何も起こらないと、その理由として「神様が思い直されたのです」みたいなことを言う。
 彼らはそんなことを年中繰り返している。毎年秋頃(ユダヤ暦の新年である9月が多い)になると、判で押したように「世の終わりが・・・」と言い出して、時期が過ぎると「主の憐れみによって回避されました」みたいなことを言う。

 ただそこまで行き過ぎてしまうと、信じる人は少ない(それでも信じる人はいる)。あるいは初めのうちは信じてしまっても、途中からおかしいと気づく。
 それはもはやキリスト教というより、何かの新興宗教の範疇に入りそうでもある。

 ただ私が思うに、より問題が大きいのは、そこまで行き過ぎていない、でも若干行き過ぎている「終末信仰」である。

■若干行き過ぎている「終末信仰」

 そこまで行き過ぎていない彼らは、自分たちを「世の終わりに力強く立つ教会」とか、「終末の大リバイバルの中心となる教会」とかと表現している。終末を強く意識した教会群である。世の終わりじゃなかったら力強く立てないんですか? って私は思うんだけど。

 彼らはほとんど口癖のように「世の終わりが近いから◯◯しよう」という構文を使う。そして「神様に褒められるようなクリスチャン」になろうとして頑張る。一生懸命礼拝して、祈って、聖書を読む。罪、あるいは罪っぽく思えるものを排除し、「きよめられた存在」になろうとする。「この世と調子を合わせてはいけない」という聖書箇所を拡大解釈し、あらゆる俗世的なものを断絶しようとする。そして自分がどこまで信仰に進んだか、どれだけ神の御心に近づけたか、みたいな評価を絶えず気にしている。

 でも冷静に考えてみれば、「終末だから◯◯しよう」というのは、「終末じゃなかったら◯◯しない」というのに等しいのではないか。という疑問があると思う。

 その◯◯とは、自分にとって何なのか。
「終末だから」しなければならないことなのか。
 あるいは「終末でなくても」したいことなのか。

 もし「終末だから」しなければならないとしたら、それは神に対する信仰というより、「終末そのものに対する信仰」になっている気がする。

 たとえば、これは以前にも使ったことのある例えだけれど、試験の前だから勉強する子と、試験がなくても勉強する子とがいるとしたら、どちらが本当の「勉強好き」だろうか。間違いなく後者であろう。
 では同じような話で、神様により忠実なのはどちらのクリスチャンだろうか。「終末だから」隣人を愛する人と、「終末と関係なく」隣人を愛する人とでは。
 私が問題視する「若干行き過ぎた終末信仰」とは、まさに前者のことである。

■本末転倒に陥りやすい信仰

 こういう本末転倒は、私たちが陥りやすい落とし穴だと思う。

 前回紹介したハックルベリーフィンの話もそうだ。隣人を愛することでなく、隣人を裏切ることで「神に仕えてる」と信じ込んでしまう。あるいはユダヤ人や黒人や同性愛者を迫害することで「神に仕えている」と信じ込んでしまう。古くはキリストを迫害したパリサイや祭司たちもそうだった。キリストを迫害することこそ神への奉仕だと彼らは信じ切っていた。

 だから私たちは「終末信仰」を持つべきだとしても、行き過ぎては良くないと思う。目的を見失ってしまうから。神に忠実であるべきだけれど、何が忠実であることなのか、時々考えた方がいいと思う。方向がズレていくのは早いから。

 いわゆる「終末研究」に熱心な人もいて、それはそれですごいとは思うけれど、同時に何の意味があるんだろうとも思う。研究が無意味とは言わないけれど、そういう視点のみで聖書をこねくり回し、あーでもないこーでもないとやったところで、いったい何になるのだろうか。

 これも毎度書いていることだけれど、キリストが終末について注意を促しているのは、具体的にどういう備えをしろとか、信仰的にどれだけ成熟しろとか、そういうことではない。ただ「惑わされないようにしなさい」とだけ言っている。私はそれで十分だと思うのだけれど、ダメだろうか?

2016年11月11日金曜日

映画のワンシーンに見る「キリスト教」の歪み

■映画における「キリスト教」

 一般の映画で、時々「キリスト教」が描かれることがある。
 いわゆるクリスチャン映画でない、娯楽映画でである。キリスト教を中心テーマにした娯楽映画ならもちろんだけれど、そうでないものでも部分的にキリスト教(教会やクリスチャン)が登場するものがある。

 と言っても、キリスト教が登場する映画全般の話をここでするのは大変なので、ごく一部に絞る。

 いくつかのアメリカ映画で、アメリカの原理主義的教会(あるいはクリスチャン)の様子がチラッと描かれている。ごく短いシーンだけれど、大変興味深いので紹介したい。
 一本は2015年の『キングスマン』で、もう一本は2012年の『フライト』。それぞれの「キリスト教シーン」を、簡単に紹介してみる。

『キングスマン』
 悪役ヴァレンタインは、人々が凶暴化して互いに殺し合うようになる信号を発信し、世界人口を減らそうとする。その実験場所にケンタッキー州のサウスグレード教会が選ばれ、礼拝説教の最中に、信号が発信される。
 その礼拝説教というのが、「America is doomed(アメリカは滅びる)」
 牧師「エイズや洪水で人々が死ぬのは神の怒りだ!」
 牧師「腐りきった政府は同性愛や離婚や中絶を認めている。それはキリストに背く者の仕業だ!」
 牧師「ユダヤ人も黒人も同性愛者も地獄の炎で永遠に焼かれるのだ!」
 信徒らはそうだそうだと熱狂しながら聴いている。
 ある信徒のセリフはこう。「悪魔を信じる者は血の池で溺れろ!」

『フライト』
 飛行中の旅客機が突然故障して急降下する。機長(主人公)の機転で奇跡的な胴体着陸が成功し、乗客102名のうち96名が生還した。副機長は両脚を失ったが、一命をとりとめた。副機長と奥さんは敬虔なクリスチャンである。機長が彼の病室を見舞う。
副機長「事故は運命です。主の裁きです」
奥さん「主をたたえよ」
機長、無言。
副機長「事故は悲劇ですが、祝福でもあります。主の計画に間違いはありません」
奥さん「イエス様をたたえよ」
機長、無言。
副機長「機長、共に祈りましょう」
機長、無言。

 ごく短いシーンだし、文字を起こしただけだからわかりにくいかもしれないけれど、どちらもクリスチャンを「変な人たち」として描いている。もちろん映画的にわかりやすく(端的に)表現しているというのもあるだろう。しかし私が知る限り、どちらもかなりリアルに近い。あまり脚色とか演出とかいう感じがしない。実際にいそうな人たちである(この日本でも同様にいそう)。

 これは何を意味しているかというと、一般人から見て「クリスチャン=変人」ということだ。もちろん教団教派の違いがあり、すべてのキリスト教徒が変人扱いされている訳ではないと思う。ただ『キングスマン』で言えば福音派、『フライト』で言えばペンテコステ派の人たちは、あきらかに「理解できないおかしな人たち」として表現されている。制作側もそう意図している(に違いない)。

 それを聞いて、福音派やペンテコステ派の人たちはどう反応するだろうか。「彼らは真実がわかってないんだ」と言うだろうか。「彼らは霊の目が開かれていないんだ」と言うだろうか。まあ上目線にいろいろ言えるだろう。

 ただ、一つ忘れてはいけないのは、「彼ら」一般人は自分たちが福音を伝えるべき相手である、という動かない事実だ。変な言い方だけれど、彼ら一般人はクリスチャンのマーケティングの対象なのである。その対象者から「変人」と思われている事実は、真摯に受け止めなければならないのではないか。

 伝道をサラリーマンの営業と置き換えて考えると、わかりやすいかもしれない。
 営業を成功させるためには、まずターゲットとする顧客の年齢層やニーズを知り、そのニーズを満たすような商品をうまく紹介し、最終的に買ってもらえるように、いろいろ努力しなければならない。また仮に商品がとっても魅力的で、放っておいてもどんどん売れるようなものだとしても、それを売る人間が「変人」であってはならない。営業とは商品だけでなく、それを売るのがどんな人間かというのも大事な要因だからだ。

 であるなら、伝道の成功を望むなら、やはり相手から見て「変人」であってはならない。百歩譲って「変人」だとしても、少なくとも「信頼される変人」でなければならない。信頼関係のないところに、福音伝道などあり得ないからだ。
 自分が福音を聞いて信じた時のことを考えてみればわかるだろう。話している相手を怪しく思いながらも福音だけは信じた、という人がいるだろうか。信じたとき、少なくとも相手が信頼に足る人物に見えていたはずだ。

■上目線に伝道?

 原理主義的なクリスチャンで、上目線な発言を繰り返す人が少なからずいるけれど、私はいつも不思議に思う。そんな態度で、いったいどうやって未信者に伝道するんだろう? いったい誰が耳を傾けるんだろう? と。

 あるカルトっぽい牧師はまさにこれである。彼は未信者のことを「ノンクリなんてバカ」と平然と言い放ち、見下していた。彼の教会は最高で百人規模に成長したけれど、未信者から「救われた」という信徒はほとんどいなかった。ほとんどが他教会から流れてきたクリスチャンだった。だから伝道効率で言えば限りなくゼロ。クリスチャンたちを集めて奉仕に駆り立てるだけで、伝道なんてほとんどできていなかった。

 それもそのはずだと思う。たとえ未信者に面と向かって「バカ」と言わなくても、普段の教会内での態度が滲み出て伝わるのだろう。未信者からしたら「何コイツ、偉そうに」となるんだと思う。

『キングスマン』の牧師にしてもそうだ。「ユダヤ人と黒人と同性愛者は地獄の炎で焼かれろ」なんて平然と言ってしまう人を信用する未信者なんている訳がない。仮にいたとしても例外中の例外のはずだ。自分たちが何をすべきなのか、何をしているのか、よくよく考えてみなければならないと思う。

■愛の実践とは

 ここで紹介したいのがこの記事。
アメリカが地獄へ行った時」 (ケン・フォーセットさんのブログ)
 とても興味深いので、時間のある方はじっくり読んでほしい。

 私が特に感銘を受けたのは「ハックルベリーフィンの冒険」の話。ハックは逃亡奴隷のジムを匿ったことを後悔する。奴隷を匿うのは罪であり、「自分は地獄に堕ちる」と考えたからだ。ハックは悩んだ末、ジムの居場所を暴露しようと考える。そして「これで天国に行ける」と安心する。つまり奴隷であり友人であるジムを裏切って売り飛ばすことが「神の御心」だと信じていた。教会でそう教えられていたからだ。しかしジムを目の前にして、やはり「裏切れない」とハックは思う。そして「分かった。俺は地獄へ行く」と決心する。という話。

 つまり愛を実践することより、自分たちの生活や権利を守ることが、当時のキリスト教信仰となっていたのである。友人を愛して守ることが「罪」であり、それを裏切って売り飛ばすことが「正義」だったのである。これは19世紀のアメリカの話だけれど、現代もそう変わっていない。先の牧師の言を借りれば、ユダヤ人や黒人や同性愛者を迫害することこそ「正義」となってしまっている。

 教会(あるいはクリスチャン)の使命とは何なのかと考えさせられる。愛を実践するとは何なのか。キリストの教えを行うとは何なのか。これを読んで下さった皆さんはどう考えるだろうか。