2017年1月21日土曜日

貫き通すべき「信仰」とは何か。映画『沈黙-サイレンス-』から。


 本日(1月21日)公開の映画『沈黙-サイレンス-』を鑑賞した。
 言わずと知れた遠藤周作の同名小説の映画化である。監督は大御所のマーティン・スコセッシ。
 一言で感想を言うなら、大変重厚なドラマであった。

 原作ははるか昔に流し読みした程度なので、今回の映画との差異はよくわからない。でも概ね忠実な作りだったと思う。
 ここでは原作はさておき、映画について、考えさせられたことを紹介したい。

■簡単にあらすじ(ネタバレあり)

 17世紀半ば。日本で布教活動中だったフェレイラ司祭が現地で棄教した、という知らせがポルトガルに届く。フェレイラを師と仰ぐ若き司祭、ロドリゴとガルペは真実を知るため日本に赴く。しかし長崎は激しい迫害下にあり、日本人信徒(キリシタン)たちは潜伏を余儀なくされていた。
 ロドリゴたちは初めこそ歓迎されたが、自分たちの存在がかえって彼らに危険をもたらしたとを知る。そして棄教を拒んだキリシタンたちが(自分たちのせいで)処刑されるのを目の当たりにし、苦悩する。なぜ彼らが苦しまねばならないのか、なぜ神は沈黙しているのか、と。
 やがてロドリゴも奉行所に捕えられ、殉教を覚悟する。しかし処刑はされず、かえって自分を慕うキリシタンたちが目の前で処刑されていくのを、延々と見せられるのだった。そして奉行にある条件を突きつけられる。ロドリゴが棄教すれば、彼らを助けてやる、と。
 自分の信仰を守るために彼らを見殺しにするか、信仰を捨てて彼らを助けるべきか、ロドリゴは究極の選択を迫られる。しかしそれこそが、かつてフェレイラが棄教した理由だった。そしてフェレイラと同じく「神の沈黙」の意味を知ったロドリゴは、踏み絵を踏むのだった。

■クリスチャンにこそおススメしたい映画

 本作を鑑賞するには、キリスト教の基本的知識、とりわけキリストの十字架について知っていることが前提になると思う。キリストが黙して十字架刑を受けたこと、十字架上で苦しんで死んだこと、そのとき天の父(神)が沈黙していたこと、なんかを知らないと意味がわからない部分が多いと思う。その意味では、クリスチャンの方々にはわかりやすいストーリーであろう。

 また本作は、キリスト教的「殉教」ついて疑問を投げかけている。
 映画の中で、殉教は素晴らしいことだ、栄誉あることだ、踏み絵など踏まずに信仰を貫き通して死ぬべきだ、みたいなセリフが登場する(ガルペ司祭が言う)。けれど後半、それに対して、では他者を苦しめて(死なせて)まで自分の信仰を守るべきなのか、ではキリストが言う隣人愛とは何なのか、というアンチテーゼが提示される。フェレイラは、そしてロドリゴは、神を愛するがゆえ、信仰を守りたい。しかし信徒らを愛するがゆえ、信仰を棄てざるを得なくなる。しかしもし棄てなかったら、それは隣人愛を棄てることになる。というパラドックスに陥る。

 つまり、信仰を守るためには信仰を捨てなければならない、でも捨てなければ信仰を守れない、という究極のジレンマ。これはクリスチャンの皆さんに是非考えていただきたい問いだ。

■押し付けられる「殉教」

 興味深かったシーンの1つに、奉行所への人質をどうするか、村人たちが話し合う場面がある。
 キリシタンが潜伏していると疑われた村人たちが、人質を出すよう、奉行所に命じられる。村人は実は皆キリシタンなのだけれど、人質にはなりたくない。だから「誰が人質になるか」という話になると、皆押し黙ってしまう。 そして他者に押し付けはじめる。「おまえ、本当のキリシタンだったら人質になって殉教しろ」みたいなことを言うのがいて、いやいやあなたもキリシタンだよね? と言いたくなった。
 このへんに、教理だからと信徒にあれこれ押し付ける、カルト系牧師のやり方が重なって見えた。

■棄教することで信仰を守る、という逆説

 もしかしたら本作は、「カトリック司祭が結局棄教してしまった物語」と誤解されてしまうかもしれない。
 表面的にはたしかにその通りである。フェレイラ司祭もロドリゴ司祭も、処刑されるキリシタンたちを救うため、自ら棄教した。そして日本人の名を名乗り、日本人の家族を持ち、日本人として生きていくことを選んだ。もはや司祭として活動せず、公には神を否定し続ける。そして死ぬまでそれを貫く。これは「棄教した」と言ってもいい。

 しかし終盤のいくつかのシーンからもわかる通り、彼らは神への信仰を捨ててはいない。むしろ残りの生涯をかけて、神への忠誠を体現し続けた。それは「棄教した」と公に宣言し続け、司祭であることを棄て続け、人から何と言われようと黙って耐え続けることだった。そしてそれこそが、キリストが黙って十字架刑を受けた「忍耐」、その様子を見ながら沈黙し続けた天の父なる神の「忍耐」から、ロドリゴたちが学んだことだったのだ。
 つまり、「完全に棄教した人生」を周囲に見せ続けることで、彼らは自分の信仰をギリギリの線で守り通したのである。
 と、私はそう解釈した。

■ちょっとトリビア

 終盤の、ロドリゴが踏み絵を踏むシーン。踏んだ後、ロドリゴは泣き崩れるのだけれど、そのときニワトリが鳴く。これはもちろん、ペテロがキリストを3度否定した後でニワトリが鳴いた、というあの話から来ているだろう。すごく細かいシーンだけど、これから鑑賞する人には良かったら確かめてみてほしい。

■疑問な部分

 本作で語られるいくつかの考え方に、若干疑問を持った。
 1つは、日本が「沼地」であってキリスト教は決して根付かない、というもの。まあたしかに日本のクリスチャン人口はメチャ少ないんだけど、「決して根付かない」まで言えるのかなぁ、という疑問。

 もう1つは、日本では「神」のイメージが歪んでしまった、彼ら日本人は「神」と言いながら「太陽」を拝んでいる、というもの。「神」に対する考え方が歪んでしまう、というのは実際にあると思うけれど、クリスチャンが太陽を拝むってあるのかなぁ、とそこは大いに疑問だった。

■最後に

 原作者である遠藤周作の意図はよくわからないけれど、私はこの作品に、キリスト教の欺瞞を提示する側面があるように思えた。
 それは「踏み絵を踏んで殉教すべきだ」という、一見すると信仰的な、敬虔な姿勢に対して現されている。すなわち「殉教」という、もちろん苦しいことだけれど、その反面で華々しく、いつまでも人々の記憶に残るという栄誉が付いて回る行為に、少なからず自己満足や見栄が含まれているのではないか、という問いかけである。そしてそれに対して、「棄教した」という不名誉を一生背負って沈黙を守ったまま生きていく、その姿勢にこそキリスト教の真髄があるのではないか、という答えが提示されているように私には思えた。

「殉教」してまで貫き通そうとしたのは、もしかしたら「信仰」でなく、自分自身の「見栄」なのかもしれない。そして不名誉に甘んじて沈黙を貫き通すことが、もしかしたら「信仰」なのかもしれない。そんな視点を持ちつつ、この作品を鑑賞してみたらいかがだろう。

2017年1月19日木曜日

聖書の「無誤無謬」について

 聖書の「無誤無謬」について、クリスチャン界隈で時々議論になっているのを見る。

 聖書の無誤無謬説(誤りがない、正しい、という意味)を主張するのは、だいたい原理主義的な立場の人たちである。それに反対するのが、リベラルな立場の人たちである。多少乱暴な括りかもしれないけれど、私はそんな印象を持っている。

 私は原理主義的な教会で酷い目にあった過去があるので、心情的にはリベラル側を応援したい。ここ数年で考え方もだいぶリベラル寄りになってきた。が、極端に振れるというより、できるだけニュートラルな姿勢で物事を見極めたい、というのが正直なところだ。だから原理主義だからと、何でも噛み付くようなことはしたくない。

 で、聖書の無誤無謬について。私が不勉強なだけかもしれないけれど、聖書を「正しいか誤っているか」で議論するのが、実はイマイチしっくりきていない。
 何故しっくりこないかと言うと、まず第一に、聖書の物語性(文学性)が、「無誤無謬」という概念と噛み合っていない気がするからだ。

■「誤っているかどうか」でないはずの、聖書の文学的表現

 前回の記事「聖書の読み方のススメ」の中の「聖書の物語性に留意する」でも書いたけれど、聖書の記述が必ずしも正しくないのは当然だと思う。たとえば聖書中の人物があるストーリー展開の中で発言したことは、あくまでその人の私見であって、神の啓示とは限らない。それは聖書に書かれた文言ではあるけれど、あくまで一個人の意見であって、普遍的な真理とは限らない。
 たとえばダビデは、詩篇で神に対する愚痴みたいなものを感情的にダラダラと書いている。神はわたしから遠いとか、神は聞いてくれないとか、いつまでも答えてくれないとか、いろいろ。でもそれは、「神様がそういうお方だ」という話ではない。ダビデが苦しい胸中をそのように(文字通り詩的に)表現しているにすぎない。

 だからそれが「正しいか誤っているか」という点で論じられるのも変な話だと思う。厳密に言えば、「神様がどんなお方か」という観点では「誤っている」と言うべきかもしれない。しかしそもそも物語性とはそういうものなので、そういう表現もあって当然である。
 つまり聖書は物語文学でもあるのだから、上記のようなケースが存在するのは至極当然であって、それをいちいち誤ってるだ何だと論じること自体がナンセンスだと思う、という話。

 そういうことをちゃんと理解したうえで聖書を読むならば、「あーこれはこの人物の言葉だ」「これは大切な教理だ」と区別することができる気がする(もちろん、わからないこともあると思うけれど)。

 と考える私は単純すぎるのだろうか。

■現代と合わない、時代背景による記述

 聖書の無誤無謬を考えるうえでもう一つポイントになるのが、「時代や地域に応じた適応」という側面だと思う。

 たとえばだけれど、新訳聖書のパウロの主張をそのまますべて受け入れるべきだとしたら、女性は帽子を被っていなければならないし、教会では沈黙を守らなければならなくなる。また男女とも独身でいることが推奨される。
 あるいは当時のローマは奴隷社会だったけれど、それを前提としたパウロの記述も複数ある。それらを見る限り、奴隷制は肯定されている。
 つまり聖書には、現代の生活様式や習慣と同じには考えられない部分がある。

「聖書がすべて正しい」と主張するならば、上記のような男尊女卑を取り入れ、クリスチャンの婚活などせず、奴隷制反対みたいな人権擁護運動もできなくなる。でもそこまで字義通りに実行している人がいるだろうか。

 一般的な読解力があるならば、これらの記述が当時の時代背景に影響されたものであり、現代には当てはめられない、とわかるだろう。
 でも、だからと言ってこれらの(たとえばパウロの)勧めを「誤り」だとするのも私は違和感がある。繰り返すけれどそれは当時の時代背景の中で書かれたものであり、単に現代とは「合わなくなった」だけであって、べつに誤りでも何でもないからだ。

 話をわかりやすくするために別の例を挙げてみる。
 地域性の問題として、申命記22章8節に、「家の屋上には手すりを付けなければならない」という命令がある。(そもそもの話、律法の細かい規定は新約時代においては履行しなくていいのだけれど)この命令は当時のユダヤの建築物を基準にしている。すなわち平らな屋上があって、人が上がっていける造りになっているのだ。だから手すりがないと、ものすごく危ない。でも、たとえば北欧の雪国だと屋根が尖がっていて、屋上などない。平らな屋根だと雪が積もって危険だからだ。だからこの命令は、屋根が平らな作りの文化にしか適用されない。もし律法が今でも有効だと仮定しても、この命令は、どの地域でも有効になる訳ではない(だからと言ってそれが誤りとはならない)。

■編纂の問題:教典としての聖書

  聖書の無誤無謬を考えるうえで次に挙げたいのは、聖書の編纂についてだ。

 ご存知の通り、聖書はいろいろな書簡の集合体だけれど、プロテスタントやらカトリックやら正教会やらコプト教会やらで、その編纂が異なっている。だからそれぞれ「違う」聖書を使っている。もちろん中心的な教義は同じはずだけれど、簡単に言うと、ある教会で聖書に含まれている書簡が、べつのある教会では存在していない、みたいなことになっている。
 では、どれが正しくて、どれが間違っているのか?

 そのへんを議論しだしたら、多分果てしないことになるだろう。でもどれかが「正しく」て、どれかが「誤っている」としたら、「誤っている」とされた教会なり教派なりは存続の危機に陥ってしまう。なぜならそもそもの教典が「誤っている」という話になってしまうからだ。

 しかし(もしそうだと仮定して)、その責めを現代の我々が負うのも理不尽な話であろう。我々は教典として伝えられてきたものを素直に読んできただけなのだから。信仰歴〇十年となったところで「あ、その聖書、まちがってました!」とか言われたら、あなたならどうするだろうか。

  この問題で私が単純に考えるのは、こうだ。現在聖書が、どの教派のものであれ、今のような形に編纂されて伝えられてきているのは、神の介入によるものだ、ということ。
 もちろん、大勢のエライ人たちが長い時間をかけて研究し、話し合って最終的に決めた編纂なのであろう。だから不完全な人間たちによる、不完全な決定であるのは間違いない。しかしそこにも神の知恵というか、配慮というか、計画というか、とにかく神による介入があったと私は考える。
 もしそう考えないとしたら、教典であるはずの聖書が、教典としての力を失ってしまう気がする。それが間違って編纂されたものだとしたら、私たちの教義理解も教会生活も信仰生活も、全てどこか(部分的であっても)間違っているということになってしまうからだ。であるなら聖書はキリスト教信仰の基礎でなく、単なる自己啓発本とかハウツー本とかになってしまうと思う。

■とりあえず、まとめ

 さて、聖書の無誤無謬説の「しっくりこない部分」について書いてみた。
 結局のところ、私が無誤無謬説に賛成するかしないかと言うと、現在言われているような形の「無誤無謬説」には賛成しない。ということになる。

 しかし私が注目したいのは、もうちょっと根本的なことについてだ。すなわち今まで書いてきたように、無誤無謬説について考えるならば、まず最初に聖書の「誤り」とは何なのか? というところから考えなければならないと思う。そして聖書の物語性、時代性、そして地域性について考えるならば、単純に「絶対正しい」とか「絶対誤りだ」とか、そういうベクトルの話にはならない気がする。

 現在入手できる聖書には神の意思が介入しており、そこに教典としての絶対性がある、ということを認めたいと私は思う。繰り返すけれど、それを認めないならば、そもそも私たちの信仰とは何なのですか、という話になるからだ。

 もう少し書きたいけれど、なんか複雑になってきたので今回はここまで。

2017年1月14日土曜日

聖書の読み方のススメ

 聖書を読むのは、クリスチャンであれば日常的な行為であろう。
 ただどう読むかは、けっこうマチマチではないかと思う。 

 そもそも聖書の読み方に厳密なルールがある訳ではない。もちろん聖書を「本」として考えるなら、初めから1ページずつめくっていくべきだろう。しかし聖書はちょっと勝手が違う。量が膨大なので、初めから読み進めたら、読み切るのに何ヶ月とか、ペースによっては何年とかかかってしまう。しかも初めから4分の3くらいは旧約聖書だから、キリスト教なのに肝心の「キリストの教え」を当分読めない、みたいな事態にもなる。
 だから聖書の読み方には、何らかの工夫が必要だと思う。

  また、当ブログにコメントをいただいたことがあるけれど、クリスチャンになって何年も経っているのに、いまだに聖書を通読したことがないとか、神学的なことは全然わからないとか、そういう人もいる。クリスチャンになったばかりの人が「全然わからない」と言うのはわかるけれど、すでに「先輩」と呼ばれる立場で、人前に立つ奉仕もしているような人が「全然わからない」と言うのはさすがに問題があると思う。そういう人に「導かれる」会衆は一体どうなってしまうのだろうか、と他人事ながら心配になる。
 そういう場合は、奉仕を頑張る前に、聖書をどう読むか、どう学ぶか、という点について立ち止まってよく考える必要があるのではないだろうか。

 という訳で今回は、聖書の読み方と注意点について、私見を述べてみたい。

■聖書はどこから読み始めるといいか

 膨大な情報量を持つ聖書を、まずどこから読み始めるべきか。前述の通り、初めから順番に読み進めていくと、結果的には通読になって良いかもしれない。けれど初めての方には、ものすごい遠回りになってしまう恐れがある。
 で、どんな読み始め方があるか、(クリスチャンになったばかりの人が対象になると思うけれど)私が実践したり見聞きしたりしたことを紹介してみる。

・四福音書、特に「ヨハネの福音書」から読む

 キリスト教は文字通り「キリストの教え」を知ることから始まると思うので、キリストの言行録とも言える福音書から読むとわかりやすいかもしれない。ただし「マタイの福音書」は第一章が人名と家系の羅列なので(それにも意味があるけれど)、初めての方には「なんじゃこりゃ」となりやすい。
 その点、「ヨハネの福音書」は四福音書の中では一番読みやすく、キリストの言葉が沢山出てくるので、初めての方にもわかりやすいと思う(私がそうだった)。また他の福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に出てこない話も沢山ある。まずヨハネの福音書を読み、それから他の福音書を読み比べてみる、という読み方はアリであろう。 たしか「ヨハネの福音書」だけを掲載した薄い小冊子もあると思う。

・新約聖書から読破する

 キリスト教の聖書は旧約聖書と新約聖書を合わせたものだけれど、キリスト教の実践という観点から見ると、新約聖書の方が重要性が高いと思う。もちろん旧約聖書も大切だけれど、「何も知らない人にまずどちらを勧めるか」で考えると、新約聖書に軍配が上がるであろう。

 旧約と新約では、平たく言うと「神」の印象が全然ちがってくる。旧約からは「おっかない神」という印象を受けるけれど、新約からは「お父さんである神」という印象を受ける。まずは後者の神様に触れてから、適切なガイドを受けつつ、前者に触れていくのが良いかもしれない。

 信仰歴が長くなり、聖書に親しんでいくと、旧約聖書からばかり引用する人が出てくる。
 たとえば「聖所に向かって手を挙げよ」という旧約の記述を強調して、賛美中に手を挙げるよう(事実上の)強要をする人がいる。でも新約でキリストが強調しているのは形式でもなく、場所でもなく、「霊とまことによる礼拝」であって、賛美中に手を挙げろとか、飛び跳ねろとか、踊り叫べとか、そんなこと言ってない(それを否定している訳でもない)。
 だから「手を挙げて賛美しましょう」というのは、聖書を根拠にしているのでなく、ただ「礼拝の盛り上げたい」だけだと私は思う。

 ちょっと脱線したけれど、キリスト教の基本となるのは、やはり「キリストの教え」であろう。だから旧約、新約とも万遍なく読んで理解を深めるのも大切だけれど、いつも新約の基本に戻るべきだと私は思う。

・旧約聖書はわかりやすいところから

 旧約聖書は、それはそれで魅力的な書物だと思う。人類のはじまりから堕落、大洪水とその後、アブラハムにはじまるイスラエル民族の歴史を、長い長い大河ドラマ的に楽しむことができる。創世記、出エジプト記(の前半)と読み進め、レビ記と民数記と申命記は(読むのが大変なので)スルーして、ヨシュア記からまた順番に読んでいけば、歴史の流れはおおよそ掴むことができる。

 レビ記と民数記と申命記にも若干ストーリーがあるけれど、長い長い律法の言葉(しかも同じ内容が何度も繰り返されたりする)が延々と続くので、初めての人にはキツい。だから初回はスルーしていいと私は思う。
 また詩歌や預言書は、それが書かれた時代背景や人物の状況を把握してから読まないと、なんかよくわからないまま終わってしまう。
  結論として、旧約聖書は読みやすいところから読んでいき、小難しいところは思い切って飛ばしていいと思う。そして後々知識が付いてきたら、そのとき挑戦すればいい。

■聖書を読むうえでの注意点

 次に、聖書を読むうえで注意した方がいいことを書いてみる。

・文脈を無視しない

 これはよく言われることであろう。今さら書く必要ないかもしれない。
 すごく単純でわかりやすい例を挙げると、コリント第一の5章8節。「パン種の入らないパンで祭りをしよう」と書いてあるけれど、これはそういう祭りを実際にしよう、という勧めではない。6節からの「高慢」に関する文脈の一部分であって、「わずかな高慢がパン種みたいに全体に広がるから気を付けなさい。そういうパン種(高慢)は入れないようにしなさい」という勧めである。その文脈を無視してしまうと、「さあ聖書にある通り、私たちの教会はパン種を入れないパンの祭りを毎月第〇日曜日に行います」みたいな話になってしまう。文脈を無視して一節、一語だけ取り上げてはいけない。

・聖書の物語性に留意する

 これは依然SNSに投稿したことだけれど、聖書の「物語性」に注意しなければならない。特に旧約においてそうだ。たとえばヨブ記をみると、酷い試練に遭って苦しんでいるヨブを励ましに、3人の友人たちがやってくる。そして3人がそれぞれ自分の長い主張を語って聞かせる。この3人の主張は、読んでいる段階では、一理も二理もあるように思える。でも終盤になって神ご自身が現れ、その3人の主張にまさかの「ダメ出し」をするのである。つまり3人のそれらしい主張は、ことごとく間違っている、ということ。
 そういう話の筋を知らないまま、3人の主張にだけ注目してしまうと、「これも聖書の言葉だから」と鵜呑みにしてしまう恐れがある。

 登場人物たちがあーだこーだ主張し合うという話の展開においては、当然ながら、その全てが「正しい」とはならない。「聖書は全て正しい」と言う人がいるけれど、上記の通り、一語一句に至るまで全部正しい、というのは言い過ぎであろう。聖書の物語性を理解して読まないと、おかしなことになってしまう。

・独創的な解釈に注意する

 聖書にはハッキリ明示されていることと、明示されていないこととがある。たとえば「盗んではならない」という命令は非常に明確で、他の解釈のしようがない。けれどたとえば、(大雑把に書くと)「信仰は行いではない」と言いながら「行いのない信仰は死んでいる」とも言っていて、どっちやねん! という部分もある。他にも明確になっていないことが沢山ある。
 つまり、聖書には「わからない」ことが沢山ある。でもそれは悪いことではなくて、わからないものは「わからない」でいいと思う。そこに無理やり自己流の解釈をほどこすと、キリスト教でなく「自分教」になってしまう。

「自分教」に陥ってしまう人の特徴として、ヨハネの福音書14章26節の「聖霊がすべてのことを教える」という箇所を強調する傾向がある。「聖霊様が私に教えてくれた」として、聖書のいろいろな箇所を、独創的に解釈してしまうのである。

 たとえばアモス書9章11節の「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし・・・」を取り挙げて、「これは終末の日にダビデの幕屋の礼拝が回復されるという意味だ」と主張して、24時間の礼拝に勤しむ教会がある。でもこの箇所は明らかに比喩表現であって、旧約時代のダビデの幕屋をそのままの形で現代に再現する、という意味にはならない。だから角笛(つのぶえ)とか竪琴とかをわざわざ輸入して礼拝に導入する必要なんてはない(べつに導入してもいいんだけど)。
 それでももし本当にダビデの幕屋を「回復」したいのなら、角笛や竪琴だけでなく、律法に規定されている幕屋を忠実に再現しなければならないし、聖所とか至聖所とか、燭台とか契約の箱とかも規定通りに揃えなければならないはずだ。でもそこまでしている教会はない。私はそこに矛盾があると思うのだけれど。

 以上、聖書の読み方と注意点を挙げてみた。

2017年1月11日水曜日

クリスチャンと「論理」

 前回は「微熱って『悪魔の攻撃』なんですか」という記事を書いた。
 微熱とか頭痛とか腹痛とかの体調不良、あるいはもっと重い病気などを短絡的に「悪魔の攻撃だ」と決めつけるのは根拠がないし、論理的でもない、というような内容だった。今回はそれに追加する形で、クリスチャンが持つべき「論理」について書いてみたい。

■論理の必要性

  前回の話を引用すると、たとえば微熱は、小児や高齢者や虚弱体質の人に出やすい症状である。若い人だってちょっとした変化で熱を出すことがある。あるいは反対に、微熱さえも出したことがない人だって中にはいる。また、微熱を出したことで成り行き的に良い結果になった、という場合だってある。
 だから、誰かの微熱はもしかしたら「悪魔の攻撃」なのかもしれないけれど、そうでない場合だって多々あるはずで、その判定を誰がどんな基準でどうやってするのか、という問題が出てくる。教会にくると約束してくれたAさんが、当日微熱で来れなくなり、「あーこれは悪魔の攻撃だな」とクリスチャンの側が決めつけても、実際には単にAさんが面倒臭くなって口実を付けただけなのかもしれない。あるいはそうでなく、純粋に熱が出て体がキツくなってしまったのだとしても、だからと言ってそれを「悪魔の攻撃だ」と判定する根拠がない(あると言うのなら、納得できるように説明してほしい)。

 この例からもわかる通り、クリスチャンにも筋道の通った「論理」が必要だと私は思う。「A=B、B=C、ゆえにA=Cである」みたいなシンプルな論理が。

 しかしこういう話をすると、こんな反論がやってくる。「いえ、信仰とは論理で割り切れるものではありません」
 信仰とは心で感じるものだ、内なる感覚に従うものだ、みたいな。でもそれは、私に言わせれば「主観」でしかなくて、根本的に矛盾している。

 なぜなら、「信仰は論理で割り切れない」と言う割には、聖書の記述が科学的に立証されるのを彼らが喜んでいるからだ。たとえばノアの方舟のサイズが船舶建造の黄金比に合致していたとか、大洪水以前の人々の寿命が長かったのは地球を水蒸気層が覆っていたからだとか、そういう論理的発見(それが正しいかどうかは別として)により聖書の「正しさ」が証明されたと言って、彼らは大いに喜んでいるのだ。

 つまり、信仰に「論理」が持ち込まれるのは喜ぶけれど、自分の感覚に「論理」を持ち込もうとはしない。
 自分の「感じたこと」は絶対「正しい」けれど、それが論理的かどうかという検証はしない。

 私がこのブログでイロイロ問題提起をしていると、時々反発する人が現れる。でも残念なことに、一人として、論理的に納得できる反論をしてくれた人はいない。酷いものになると「うるせーとしか思わない」「こんなの書くのは小物」みたいなお子様レベルの中傷がやってくる。

 私は自分が正しいとは思っていない。おかしいと思うことを、「おかしいと思う」と言っているに過ぎない。誰かがちゃんと説明してくれて、それでスッキリ納得できるなら、いくらでも自分の考えを訂正したいと思う。

■福音は非論理的なのか

 時々こんな意見も目にする。
「キリストの福音は理屈(論理)で割り切れるものではない」
  すなわち、それを信じるのは論理を越えた部分である、という意味であろう。

 しかしこの意見は、論理と論理でないものとを混同していると思う。
 つまり、キリストの十字架の死と復活は、キリスト自身にとって合理的なものではなかったかもしれない。わかりやすく言うと、感情的には嫌だったかもしれない。しかし彼自身の教えである「隣人愛」を究極的に体現したものであって、その意味でちゃんと筋道が通っている。すごく論理的な行為だと思う。

 だいいち、もしキリストの福音に論理的矛盾があるとしたら、私たちは果たして信じただろうか?
「A=B、B=C、でもA=Cではない」みたいな論理的破綻があるとしたら、誰だって不安になると思う。たとえば、「神は愛である。神は1人として滅びることを望まない。ゆえに神はあなたの罪を許さない」みたいなおかしな話だったら、みんな相当困ってしまう。少なくとも教理として受け入れはしないだろう。私たちだって誰かに福音を伝える時、ちゃんと筋道を立てて説明しようとすると思う。話が支離滅裂だったら、誰も信じてくれないからだ。
 その意味で、やはり論理は必要なのだ。

 そういう論理の上に福音を成り立たせ、誰かに説明したとして、それを相手が信じるかどうかは、たしかに「論理を越えた部分」の話になるかもしれない。しかし論理がなければそこまで到達できないのであって、論理はいらないとか、自分の感覚が全てだとか、そういう話にはならない。

 という訳で、信仰には論理が必要だという話。
「微熱が出て教会に行けない」→「あー悪魔の攻撃だね」
 そこにどんな論理があるのか、あるいはないのか、よくよく考えてみていただきたいと思う。

2017年1月6日金曜日

微熱って「悪魔の攻撃」なんですか

■微熱って「悪魔の攻撃」なんですか

 あるクリスチャンの方々の、こんな会話がある。

A「知り合いを教会に誘ったら、次の日曜に来てくれることになりました」
B「ハレルヤだね。Aさんの祈りが通じたね」
A「はい、ありがとうございます」
(次の日曜日)
A「知り合いが朝から微熱で、来れなくなりました」
B 「あー悪魔の常套手段だね。続けて祈ろう」

 これを見て、皆さんはどう思われるだろうか。
 ちなみに私は溜息をついてみた。

 これはつまり、「微熱=悪魔の攻撃の常套手段」という話なのであろう。でもどうしてそういう話になってしまうのか、根拠が知りたい。

 またその根拠が何であれ、微熱が悪魔の「攻撃」だとしたら、ずいぶん可愛いらしいと思う。それにそんなこと言ったら、新生児や乳児は四六時中「攻撃」されていることになるし、体温調節機能が低下した高齢の皆さんは布団を厚めにかけただけで悪魔に「攻撃」されてしまうことになる。
 そういうチョコマカした「攻撃」で人に嫌がらせするのが、現代の悪魔のやり方なのだろうか? だとしたら悪魔など恐れるに足りないのではないか。解熱剤や冷えピタで、簡単に撃退できるのだから。

 あるいは、「教会に来ようとした人を微熱で邪魔してやった」のがその悪魔の功績なのかもしれない。人を教会から遠ざけるのが悪魔の目的で、微熱はあくまでその手段の1つ、という話なのかもしれない。だとしたら「悪魔の策略」など見え見えで、やはり恐れるに足りないと思う。
 なぜ人類は、こんな見え透いた手しか使わない悪魔にやられてしまったのだろうか。よくそういう教会では「悪魔の策略は巧妙だ」みたいな話が出るけれど、これのいったいどこが巧妙なのだろうか。
 と、私はイロイロ疑問に思う。

■本当に「悪魔の攻撃」だとしたら

 聖書に「悪魔の攻撃」を求めるならば、たとえばヨブ記が挙げられるだろう。サタンは神の許しを得て、ヨブの全身を腫物で覆うという身体的「攻撃」をした。あるいは新約を開くならば、人に憑依(?)して凶暴化させた悪魔とか、豚の群れに入った悪魔とかも出てくる。なるほど、悪魔は人間を物理的にも「攻撃」する、と読むことができる。

 しかしかと言って、悪魔の「攻撃」が必ずしも病気だとか、必ずしも微熱だとかいうことにはならない。もし病気が全て悪魔の「攻撃」ならば、今いる病人たちは皆「攻撃」された(あるいは攻撃され続けている)ことになる。そして今まで大病とか大きな怪我とかしなかった人たちは、未信者か信者かに関係なく、一度も「攻撃」されなかったことになる。その差はいったい何なのだろう。悪魔は健常で病気にかかりにくい人たちを「攻撃」できないのだろうか。免疫力の弱い人たちしか「攻撃」できないのだろうか。

 また病人と一口に言っても、そこには年齢別・階層別の明らかな「差」があるはずだ。簡単に言うと、若い人の病気率は低く、小児と高齢者の病気率は高い。とすると、悪魔は小児や高齢者を重点的に攻撃している、ということになる。でもどうして? 気力・体力ともに充実している若者は狙いづらいのだろうか。

 ヨブ記に限定して言えば、悪魔の攻撃は「神の許可」を得て行われたはずだ。とすると、(病気=悪魔の攻撃ならば)神が全人類を病気で攻撃する許可を悪魔に与えた、ということになる。であるなら、微熱なんて可愛い攻撃で済むのだろうか。もっと壮絶なことにならないだろうか。悪魔が人間に対してそんなに手加減するのだろうか。

 それに、病気になってかえって良かった、というケースだってある。
 実際にあった話だけれど、ある人が遠方の「聖会」に参加しようとして、新幹線のチケットまで用意していた。しかし前日になって体調を崩してしまい、泣く泣く参加を断念した。けれど当日たまたま大雪が降って、もし予定の新幹線に乗っていたら途中で立ち往生してしまうところだった。それを知った関係者は「これも主の守りでしたね」とか言っていたけれど、あれ、病気って悪魔の攻撃なんじゃなかったっけ? なんか都合よくないですかね。という話。

 結局のところ、「悪魔が病気をもって人間を攻撃する」のは否定できないけれど、肯定もできない。起こった事象を主観的にどうとでも解釈できてしまうのだから。ちょうど教会に来ようとした朝に微熱が出たのを「悪魔による妨害だ」と思いたい心情はわかる。けれどそれは心情に過ぎない。そこに明確な根拠は見つけられない。

■悪魔について論じる前に考えるべきこと

「教会に行こうと思ったけれど、微熱が出たので行けなかった」
 それを「悪魔の攻撃」と短絡的に考えるより前に、少し人間心理について考えてみることをお勧めする。

 ぶっちゃけた話、「微熱があるから休む」としたら、それは(その人にとって)さほど大切な用事じゃなかった、ということだ。はじめから。
 もちろん虚弱体質とか病弱とかで、ちょっとの熱でも大変つらくなってしまう、という身体状況の人は別だ。けれどそうでない人、特に健常で若い人などは、微熱くらいだったらかまわず出掛けるだろう。大事な用事があるなら尚更である。

 自分の場合で考えてみればわかると思う。あなたにとって重要な日、なんでもいいけど、以前から心待ちにしていたイベントの日とか、仕事上重要な会議がある日とか、結果によって進路が左右されてしまう大事な試験の日とか、そういう日の朝に多少熱があってもお腹が痛くても、休むという選択肢はなかなか思い浮かばないのではないか。まして微熱くらいなら、滅多なことでは休まないと思う。

 逆に簡単に「休もう」と思える状況は、どんなものだろう。当然ながら、さして重要でない用事の時であろう。誰かとの義理で(半ば迷いながら)約束したこととか、ちょっと行ってみようかなと軽い興味があっただけのこととか、そういう時にちょっと微熱があれば、ちょっと腹痛があれば、ちょっと具合が悪ければ、ちょっと都合が悪ければ、あるいはちょっと面倒だなと思えば、容易に「今回は休もう」という発想になるはずだ。

 教会に時々きていた若者Aくんの話を紹介しよう。彼は決して熱心でなく、礼拝は休みがちだった。Aくんはどちらかと言うと、礼拝が終わった頃に裏口からコソッと入ってきて、お菓子をつまんだりおしゃべりしたりするのを楽しむ子だった。礼拝に誘うと「来週は必ずきます!」と元気よく言うのだけれど、いざ来週になると「歯が痛いから」「体がだるいから」「逆さまつ毛の治療に行くから」とかイロイロ言って休んだ。さて、彼は毎週毎週「悪魔の攻撃」を受けていたのだろうか。ちなみに言うと、逆さまつ毛の治療は日曜日にはできないはずだけれど。

「教会に行こうと思っていたけれど、微熱が出たから行けなかった」というのは、私に言わせれば「今回は遠慮します」という遠まわしな意思表示に他ならない(もちろん例外もあると思うが)。それを「悪魔の攻撃だ」とか「あー悪魔の常套手段だね」とかしたり顔で言うのは、何とも痛々しくないか。悪魔ウンヌンとか天使ウンヌンとか霊的にウンヌンとか言う前に、人間とはどんなものかを、もうちょっと考えた方がいいと私は思う。

 もしかしたらこういう反論があるかもしれない。「中には誠実に約束を守る人もいます」
 大丈夫。そういう人は微熱くらいじゃサボらないから。